1924(大正13)・11・17

~孝吉の日記~

快晴。追手の風。 デッキビリヤード、デッキゴルフ等して遊ぶ。夜、社交室にlittle concert開かる。西洋人のピヤノ、Missの声楽、山中氏[*1]のセロ[*チェロ]独奏等あり。
旅芸人風の西洋婦人の歌数番、奇抜。

■中央食堂と成瀬賢秀

誰もがひもじい思いをしない社会を目指したい―。第1次世界大戦中からの物価高騰に庶民が苦しむ中、健康的な食事を安く提供する場を設ける動きが全国各地に広がった。

東京では、1918年1月に設けられた「平民食堂」。同年7月に富山で起こり全国に波及した米騒動に先立つ。豚汁と1合5勺のご飯を破格の1食10銭で提供した。手掛けたのは、医師で社会活動家の加藤とき次郎じろう(1858~1930)。平民病院や平民薬局、平民法律所を開くなど低中所得者のために幅広い社会事業を実践した。

1年後の19年元旦、名古屋市には「中央食堂」が誕生している。名古屋で運動を牽引したのは宗教者たちだった。箱根丸に乗ってインドへ向かっていた真宗大谷派の正福寺(名古屋市)住職、成瀬けんしゅう(1876~1945)はその一人だ。寄付を募るに当たっての発起人は成瀬のほか、牧師の長野直一郎(浪山ろうざん)、僧侶の木津無庵、名古屋新聞の与良よら松三郎。宗教の違いを超えて手を携えた。翌年の出版物[*2]によると1日平均700~800人に食事を提供している。

階上では文化講座が開かれ、名古屋の文化運動の拠点となった。この運営にも成瀬は関わっている。このほか長野、牧師の金子卯吉(白夢はくむ)ら宗教者と、評論家の井箆いへら節三、名古屋新聞の与良、小林橘川きっせんらが核となった。講師には、白樺派の有島武郎や武者小路実篤、劇作家で社会運動家の秋田雨雀ら幅広い人が招かれ、人気を博した。

成瀬は一緒に旅に出た原けんと同い年で、「幼少からの竹馬の親友」[*3]だった。2人が生まれたのは、政府の神道国教化に伴う廃仏はいぶつ毀釈きしゃくが終わる頃。大きな打撃を受けた仏教の復興に向けて教えを広めるため、実社会とどう切り結ぶのかが問われた時期に育った。2人そろって社会事業に力を注いだのは、仏教改革の実践でもあったろう。成瀬は仏教雑誌を発行するかたわら、時には寺をあえて飛び出し、伝道の場を社会の中にも求めた。

成瀬には別の顔がある。日本画家の川合玉堂に学び、宗門校の尾張中学校で図画を指導した。芸術に深い関心を抱いていた。

明治期には、1883(明治16)年に浄土真宗本願寺派僧侶、北畠道龍がインドの仏教遺跡を巡ったのをはじめ、同派門主の大谷光瑞などがいわゆる「大谷探検隊」をインドにも派遣し、それぞれに耳目を集めた。僧侶だけでなく、日本画家たちも次々に渡印する。1901(明治34)年から02年にかけて訪れた岡倉天心の勧めで、菱田春草と横山大観が03(明治36)年に訪問。大正期には荒井寛方かんぽう野生司のうす香雪、朝井観波かんぱ、そして桐谷きりや洗鱗せんりんらがアジャンタ石窟壁画の模写を手掛けた。荒井らが手掛けた模写は18年に東京、翌19年に京都帝室博物館(現在の京都国立博物館)で展示され、京都市立絵画専門学校で学んでいた孝吉も足を運んでいる[*4]。インドへの成瀬の憧憬は募る一方だったろう。48歳になって実現をみた旅の夢だった。

セイロンのコロンボで下船後に訪れた博物館で古代仏教芸術を目の前にし、早くも「魂を吸ひつけられるようであった」と自著『印度遊記』(中西書房、1928年)に記している。インド、ネパール、ビルマ(現在のミャンマー)の仏教遺跡を感激に目を潤ませながら巡った後、ボロブドール遺跡を見ようと単身ジャワへ渡っている。『印度遊記』には約4カ月にわたる旅を詳細に記録し、インドのカースト制度を批判している。平等を説いた仏教の原点を確認し、伝道への思いを深める旅でもあった。

桐谷洗鱗(1877~1932)が1917(大正6)年に手掛けたアジャンタ壁画模写の絵はがき。発行時期は記されていない。世界の古代壁画に関心を寄せた孝吉の旧蔵。

往航時、箱根丸での成瀬の部屋は、孝吉が同行させてもらった洋画家、川島理一郎夫妻の隣。一緒に絵筆を執ることもあったのだろう。川島は成瀬のために、扇面に帆船の絵を描いている[*5]。次第に打ち解け交流する人々を乗せ、船は海を行く。

【註】
*1 後に配られる乗船者リストによると、ロンドンへ向かった「Mr. K. Yamanaka」。英国で発行された邦字誌『日英新誌』では連絡先が山中商会気付となっている。同社は中国や日本の美術品の輸出を手掛けた商社で、ロンドン支店は英王室の御用達だった。現地の日本人会への1925年3月新入会員として同誌に「学生 山中金三郎氏」とあり、同一人物とみられる。山中金三郎は後に同社支配人を務めている。
*2 『愛知県人士録』博進社、1920年
*3 原宜賢『印度仏蹟緬甸暹羅視察写真録』東光堂、1926
*4 1919年4月27日付、孝吉の日記(個人蔵)。心を動かされ、「崇高の感、身にせまり(中略)現世を超越して行く。私をして崇高な仏陀の人格にいつも心の手を合せて礼拝せしめるには充分な画だった」と綴っている。
*5 成瀬賢秀『印度遊記』(中西書房、1928年)に図版がある。

【他の主な参考文献】
成田龍一編集『加藤時次郎選集』弘隆社、1981年
斎藤勇『名古屋地方労働運動史』明治・大正篇 風媒社、1969年
高橋博久「『中央食堂』開設の経緯―番茶の家綺談」(その1)『コミュニティ政策研究』第2号 愛知学泉大学コミュニティ政策研究所、2000年3月
『名古屋市政年鑑』昭和16年版 市政研究社、1941年

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