~孝吉の日記~
追手の風。快晴。海水漸く碧色。
夜、食堂にて法話あり。面白からず。
■仏教発祥の地へ向かった原宜賢
箱根丸は針路を南に取り、次の寄港地、香港へ向かう。16、17両日は終日を海の上で過ごす日だ。船上では乗客を退屈させまいと、夕食後にさまざまな催しが企画される。
この日、神戸を発って初めての講演会が開かれた。講師として白羽の矢が立ったのは、すでに何度も触れた原宜賢(1876~1933)。面白くない、と孝吉が日記で評した法話は、この講演会のことだった。
原自身は「『満されたる生活』といふ様な御話を一席仕た」と自著『印度仏蹟緬甸暹羅視察写真録』(東光堂、1926年)に書く[*1]。同行の友人、成瀬賢秀によると、演題は「覚悟」。内容は「何時、難破沈没しても好いといふ落ち着きがなければならぬ。それには平素の覚悟が必要であるといふことを力説」するものだった[*2]。「私のやうな凡夫には能きそうにもないと思つた」と感想も添えている。
孝吉にはましてその覚悟は無理だったろう。念願の渡航をようやく実現し、期待に満ちあふれる26歳の青年だ。しかも、孝吉が13歳の時、兄が乗るはずだった外国客船が沈没。九死に一生を得たと言い伝えられている。沈没は例えにならない話だった。今死んじゃたまらん、と思いながら法話を聞いたのではなかったか。
もっとも当時48歳の原は、難破の可能性があろうとも船出させないわけにはいかないという強い覚悟をもって、いくつもの社会事業を主唱してきたのかもしれない。生活に困窮する人々の支援、罪を犯した少年の再犯防止に身を捧げ、名古屋で先駆をなした活動家の一人だった。
愛知県美和村(現在の、あま市)に生まれ、11歳で得度。中学生の時に生死の境をさまよう。命をとりとめ、社会のために力を尽くそうと心に決めたのだという[*3]。真宗大学(現在の大谷大学)に在学中から、大学がある京都で同和地区の生活改善に携わった。
卒業後に膳所(大津市)、名古屋、横浜の監獄で教誨師として受刑者の更生を目指すうち、住む場所や仕事を失って困窮の末に犯罪に至る例が多いと実感。「防貧」の仕組みづくりを目指すようになる。真宗大谷派、正覚寺(名古屋市)の住職として布教に当たるかたわら、1915(大正4)年に愛知無料宿泊所を設けて職業紹介も開始。17年には、法に触れた少年のための保護組織を自坊に置いた。
翌18年には二葉保育園を開く。月謝無料。昼食は弁当持参だが、費用を払えば給食があり、極貧者はそれも無料。午前6時からの早朝保育を手掛け、医師が月2回診察したといい[*4]、熱意のほどがうかがえる。
毎日たばこ1本を節約してもらい、その分を貧しい人の支援費に充てる運動も地域で繰り広げた。まさに八面六臂の働きだった。
原が社会事業を広げた時期は、第1次世界大戦に重なる。大戦景気で資本家が富む一方、物価の上昇に賃金が追いつかず、労働者の貧困が深刻化した。河上肇の『貧乏物語』が出版されてベストセラーとなったのは1917年。翌18年には、シベリア出兵を見込んだ買い占めで米価が跳ね上がり、米騒動が起こっている。
住む家や仕事を失っても最低限の生活をできるようにし、自立を目指す土台をつくる。働く人と子どもを家族ごと支える。今でいう地域社会の「セーフティネット」を市民の手でつくったといえる。資金を募り、人手を確保し、事業の態勢を築いて運営するにはどれほどの覚悟と努力が必要だっだだろうか。
原と成瀬によると、仏教を生んだ地、インドの仏跡巡りは互いに宿願だったが、一緒に旅に出ようと意気投合したのは1921年のことだった。洋画を学んでその本場へ向かう孝吉同様、仏教者として釈迦ゆかりの地を踏んで教えの原点やその文化に触れたいと願うのは当然だろう。だが、原の都合で成瀬を3年待たせ、ようやく実現した。大勢の檀信徒が「渡天後援会」をつくって送り出したという。
日本画家の織田旦齋を交えた3人は、セイロンのコロンボで箱根丸を下船。米つき小屋に泊めてもらったり、牛車や象の背に揺られたりしながらインドやネパールへ、さらに南方仏教を知ろうとビルマ(現在のミャンマー)へと旅する。そこから原と織田はタイへ、成瀬はジャワへ向かう。
原の写真録には、4カ月半にわたる旅の間に自分で撮影したものに、現地で得た絵はがきを接写したものを加えた写真約510点を収め、文を添えている。総ルビに近い本だ。この時期の新聞は総ルビだったが、書籍は必ずしもそうではない。漢字が読めない人も念頭に置いたのではなかったか。
仏跡にとどまらず幅広く見て回り、あらゆるものにカメラのレンズを向けている。子どもの発育上、日本のおぶい方より好ましいのでは、とビルマのカレン族やベトナム人親子を撮影する。やはり日本の参考になる、と炎天下でも日陰で交通整理に当たれる設備に関心を寄せる。タイでは監獄へ。竹梯子の首枷をはめさせた重罪人、死刑執行までとらえ、所長に当たる典獄に対して「二三條の批評を試みた」。インドの仏教徒が開いた市場や宿泊所、病院、学校はもちろん見学した。釘の床に座したり、両手を差し上げ続けたりしているバラモン教徒の苦行。拝火教の鳥葬施設。焚き付けにするため家の土塀にびっしりと貼り付けて干されている牛糞。象狩りや、虎を捕る仕掛け。
跋には成瀬が「純真の心の持主が、至る処に驚異の眸を睜つて」初めて目にするものへの驚きをカメラに収めた、と綴った。100年前のアジア各地の姿とともに、宗教者であり社会活動家でもあった原の旺盛な好奇心と社会へのまなざしも伝えている。
【註】
*1 原は法話を11月17日のこととしているが、成瀬は孝吉と同様、16日と記す。
*2 成瀬賢秀『印度遊記』中西書房、1928年
*3 『社会事業功労者事蹟』社会局、1929年
*4 『愛知県教育史』 資料編 近代3、愛知県教育委員会、1994年
【他の主な参考文献】
原宜賢「救貧と防貧」『救済』1917年2月号、大谷派慈善協会本部
『昭和大礼愛知県記念録』愛知県、1929年
『大正昭和名古屋市史』第8巻(社会篇)名古屋市、1955年
秋本文吾編『光栄録』光栄録謹纂所、1928年