~孝吉の日記~
日。曇。雨。今日も亦、古典の巡礼をやる。
Santa Pudenziana[*サンタ・プデンツィアーナ聖堂]。St. Peter[*聖ペテロ]が住んだと云はれ[*伝説で、ペテロが泊まった屋敷跡に建てられたとされる]、羅馬で最も古いと書いてあるが、後世の再築で古の面影はない。tribune[*後陣]に390A.D.のmosaicがある。又、古いmarble columns[*大理石の柱]も見受ける。けれど大した事なし。最大の寺、四世紀以来の寺だが、今のは近代化してよくない。facade[*ファサード。建物前面の外観]は大きなrenaissance[*再生。ファサードは19世紀に改修されており、「大改修」との意味で書いたのかもしれない]である。中に五世紀[*正しくは、4世紀末頃]のmosaicsがあるばかり。他は本願寺式だ。S.Martino ai Monti[*サン・マルティノ・アイ・モンティ教会]。これもmodernでよくない。24antique columns[*古代の列柱]だけ古を語る。Arch Emp. Gallienus[*ガリエヌス(皇帝)の門]は大きくないがよい建築だ。262A.D.建、Roman[*古代ローマ時代のもの]である。
Piazza Vittorio Emanuele[*ヴィットーリオ・エマヌエーレ(2世)広場]の周囲は野菜などの市場で大混雑。反物なども出て面白いきれがある。公園の中にTrofei di Mario[*「マリウスの戦勝像(マリウスのトロフィー)」とも呼ばれるニンファエウム・アレクサンドリ]のruins[*遺跡]がある(古のwater-tower of Aqua Julia[*ユリア水道の給水塔]の廃残)。近くのPiazza Guglielmo Pepe[*グリエルモ・ペペ広場]にもaqueduct[*水道橋]の残りらしい、煉瓦造りの壊れがある。鉄道近くにTempio di Minerva Medica[*ミネルヴァ・メディカ神殿]といはれるdomeの壊ruinsがある。3rd cent.のNymphaem[*泉の精ニンフを祀る場所「ニンファエウム」]である。

ミネルヴァ・メディカ神殿(いずれも孝吉がイタリアで買った絵はがきより)
Porta Maggiore[*マッジョーレ門]は大きなAqua Claudia[*クラウディア水道]の一つのarchである。これもRoman[*古代ローマ時代のもの]の標本となる。
Amphitheatrum Castrense [*カストランセ円形闘技場]もruins。
正午、一度帰って、午後又、出懸ける。雨が降って来た。だが、おしていく。Ponte Garibaldi[*ガリバルディ橋(駅)]で電車を下りる。Piazza Mattei [*マッテイ広場]のFontana delle Tartarughe[*亀の噴水](1585 by Taddeo Landini[*タッデオ・ランディーニ])は小さいが美くしい噴水である。川にそってTheatre Marcellus[*マルケルス(マルチェッロ)劇場]があった。

マッジョーレ門

マルケルス劇場
すぐ近くにPortico of Octavia[*オクタヴィアの柱廊玄関]がある(by Augustus[*アウグストゥス], restored by Sept. Severus and Caracalla[*セプティミウス・セウェルスとカラカラにより修復] in 203)。主な入口に五本程のコリンシアン柱を見る。立派さが見える。小さいSan Nicola in Carcere[*サン・ニコラ・イン・カルチェレ]の寺へも入ってみる。
Ponte Fabricio[*1](Ponte dei Quattro Capi[*クワットロ・カーピ橋])(B.C. 62 by L.Fabricio[*2])も古い。Ponte Emilio[*イタリア語読みで「エミーリオ」橋、ラテン語は「Pons Aemilius」(アエミリウス橋)](B.C.181-、度々再築)の断片が川中に残てゐる。1598より前のもので、archなどのくり方が美くしさを思はしめる。
【註】
*1 イタリア語で「ファブリチオ」橋。ラテン語なら「ファブリキウス」橋。
*2 イタリア語で「ルーチョ・ファブリチオ]。ラテン語なら「ルキウス・ファブリキウス」。

オクタヴィアの柱廊玄関
Tempio di Vesta[*「ウェスタ神殿」と呼ばれていた神殿。現在はヘラクレス神殿とされている]は円形で20 Corinthian columns[*コリント式の円柱]を持ってゐる。屋根の古のものがないので不美だが、列柱だけはよい。すぐ傍の小さいRoman[*古代ローマ時代の]Tempio della Fortuna Virile [*「フォルトゥーナ・ウィリリス神殿」と呼ばれていた神殿。現在はポルトゥヌス神殿とされている]は18本の円柱を持って美くしい建築である。傍にCasa di Bienti[*3]の側壁が残る。Greek temple[*ギリシャ神殿]を思はしめる。
[*ヘラクレス神殿、ポルトゥヌス神殿、アエミリウス橋の図が添えられている]
S.M.in Cosmedin[*サンタ・マリア・イン・コスメディン教会]、(foundation 5th-6th cent. by Greeks from Constantinople)。
中に12th cent.のmarble pavement[*大理石の床面舗装]がある。
壁の間にある20 antique columnsがRomaの立派さを語る。
San Giorgio in Velabro[*サン・ジョルジョ・イン・ヴェラブロ教会]も近い(16 antique columnsを持つ)。すぐ隣にArcus Argentariorum[*アルジェンタリ門](an arch by the money changers[*両替商の門])。Septimius Severusの為に建てた小さいarchである。
すぐ前にJanus Quadrifrons[*ヤヌス門]が重々しく残る(an arched passage with four façades and an upper story, of the later imperial age[*4つの正面と上階(19世紀に取り除かれて現存しなかった)を持つ、古代ローマ帝国後期のアーチ形の通路])。これはよく残されたRoman建築である。
Cloaca Maxima[*クロアカ・マキシマ](古の下水溝)が見あたらない。
南のSanta Sabina[サンタ・サビーナ聖堂]へ行く。425年建で再築されてゐるが、古風な寺である。戸の上にA.D.430のmosaicがある。24 ancient columnsが立つ。今日は随分と見て廻た。
【註】
*3 当時「コーラ・ディ・リエンツォの家」と呼ばれていた「クレシェンツィの家」の間違いの可能性がある。

ヘラクレス神殿。右奥へポルトゥヌス神殿。さらに奥にクレシェンツィの家。

ポルトゥヌス神殿。満艦飾の洗濯物やそばを行く馬車が時代を伝える。

クレシェンツィの家

アルジェンタリ門

ヤヌス門