1925・5・6 パリ

~孝吉の日記~

水。晴、雨。Louvre Musée[*Musée du Louvre(ルーヴル美術館)]へ行く。
全体を通して見た。今日は埃及、アッシリア、希臘の美くしさに全身をさゝげた。何とした力強さと落着きと単純さと歓喜に充たされた明快な世界か。あゝもう自分は古典を礼讃する前に他の小さき丘や山を見たくなくなった。
なる程、総ての時代、総ての大家は各自相当の力と個性の美くしさとを見せる。それ相当に偉大でもあり、大いに崇敬すべきものが多い。
けれど少くとも、自分の理想としてより偉大な埃及やアッシリア、希臘などに讃嘆するならば他の後世の大家達もその影をうすくすることは、自分の力如何にかゝわらず当然の事実である。Cimabue[*チマブーエ]もGiotto[*ジオット]もBotticelli[*ボッティチェリ] もLippi[*フィリッポ・リッピ]もDuccio[*ドゥッチョ・ディ・ブオニンセーニャ]もDaddi [*ベルナルド・ダッディ]もAngelico[*フラ・アンジェリコ]もDa Vinci[*ダ・ヴィンチ]もMichael[*Michelangelo(ミケランジェロ)]も皆古代の力と落着きと大まかな強さにくらべて大分表面的であり陰鬱であり、小細工であるやうに見へた。そうして現代に於てPicassoやMatisse、Derain[*ドラン]などによって再び明るみと単純な世界へ出た。
しかし、おしい事には現代はあはただしい現代であって、もう中世に見るやうな落着きさへも失って居る。古代は永久に古代であって、あの頑健な純朴な落着いた世界はもう再び帰らないか。しかし自分等は理想に向て一歩なりとも進みたいものだ。
最も大きな美しいものの為に、他の小さい美くしさを捨てなければならない。
困た事には過去に於て油絵の物が最上の芸術を作てゐない事だ。埃及のfresco[*フレスコ]やPompeii[*ポンペイ]やOstia[*オスティア]などのfrescoes、Roman mosaic[*古代ローマのモザイク]などを見ては、Da Vinciのモナリザも作り事のお芝居が多いやうにも見へた。

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