~孝吉の日記~
土。曇。案外に寒い。午前、Vildracさんの奥さん[*1]が見へた。午後、Indépendantsの展覧会[*アンデパンダン展]をも一度見に行く。帰りにÉtoil[*エトワール広場]附近のGalerie Durand-Ruel[*デュラン=リュエル画廊]を見る。初期印象派の画が多い。これが新らしかった時代もあるのだ。随分、時代が変たのには驚く。どうも一世紀も前のやうだ。
【註】
*1 ローズ・ヴィルドラック。劇作家、詩人の夫シャルルとともに画廊を経営していた。
■「狂乱の時代」に見る初期印象派
モネの作品《印象・日の出》が由来となって、「印象派」という言葉が生まれたのは1874年。孝吉がデュラン=リュエル画廊を訪ねる51年前のことだった。
フランスの保守的なアカデミスム絵画に対抗して、モネやルノワール、シスレーら約30人がこの年、展覧会を開く。色彩と光を重んじる印象の表現。自由な筆致。神話や歴史を題材とし、筆あとを残さず滑らかな仕上げを尊ぶアカデミスム絵画とは全く異なっていた。
評判は散々で、作品は売れない。「印象派」は画家たち自身が名乗ったのではなく、揶揄を含んで外から付けられた呼び名だった。
だが、運動の革新性を評価し、印象派の画家たちと交流して生活を支え続けた画商がいた。ポール・デュラン=リュエル(1831~1922)。2年後の1876年、第2回展の会場をデュラン=リュエル画廊で引き受けた。終生に買い上げたモネの作品は約1000点、ルノワール1500点、ピサロ800点に上る。米国でも市場を開拓し、印象派に対する世界的な評価を高めた。
孝吉がフランスの土を踏んだ1924年には、ポールが没してすでに2年が経っていた。それでも、京都の街中に生まれ育ったために自然の美に憧れ、山上に画架を担ぎ上げてまで戸外での制作を大切にし、光を描きたかった人である。渡航前には印象派風の作品を描いたこともある。当然、一度は訪ねたい画廊だっただろう。パリ到着から間もなく足を運んだが新店舗へ移転準備中で、おそらくこの日が初めてだった。
画廊であらためて実感したのが、半世紀間の絵画運動のめまぐるしさだった。孝吉が若い頃から関心を抱いてきたセザンヌやゴッホらのポスト印象主義に続いて、20世紀初頭にはフォーヴィスム、ドイツ表現主義、キュビスムが誕生。1924年にはシュルレアリスムが宣言されていた。まして1925年のパリは、第1次世界大戦が終わった1918年から29年の世界大恐慌まで約10年間の「狂乱の時代」のただなかである。エコール・ド・パリの画家たちが活躍し、新しい価値観を活発に模索していた。
半世紀前には革新的だった初期印象派の作品が、孝吉の目に「一世紀も前のやう」に遠い昔のものに映るのは無理もなかった。
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印象派の影響がうかがえる大橋孝吉の《乙訓の池の秋》(1923年、カンヴァス、油彩、53センチ×65センチ、個人蔵)。関東大震災を受けて川端画学校で学び続けることを諦め、京都に戻って間もない頃、渡航前の作である。