1925・2・1~6 パリ

2・1

~孝吉の日記~

日。岩田さん[*岩田豊雄]伊太利イタリアへ行く事にする。

2・2

~孝吉の日記~

月。伊太利語の本など見てすぎる。

2・3

~孝吉の日記~

2・4

~孝吉の日記~

2・5

~孝吉の日記~

木。Thomas Cook[*トーマス・クック。旅行会社]へ行って、Milan、Venice、Florence経Romeまでのticketを買ふ。496fr(1ポンド=88fr)。列車席のreserve[*予約]をする。岩田さんとRome迠一所に行ってRomeで別れ、川島さん[*川島理一郎・エイ]の来るのを待つ事にする。多年憧れて居た美術の伊太利を見る機会が来た事を喜ぶ。

2・6

~孝吉の日記~


■岩田豊雄とイタリアへ

岩田豊雄(後の作家、獅子文六)が柏村次郎に世話になったドイツから戻って3カ月半。今度は孝吉とイタリアへ向かうことになる。岩田31歳、孝吉26歳の初春だった。

なぜこの2人が一緒に旅に出ることになったのか。

岩田がイタリア・フィレンツェから日本への手紙[*1]で明かしている。岩田が「画かきになろうという若い男」「少年」と書くのが、川島理一郎・エイ夫妻とともにパリに来た孝吉である。

「少年」は憧れのイタリアへ一刻も早く行きたくてたまらない。初めて海外に出て間もない孝吉にすれば欧州に明るい人と旅したいところだが、川島理一郎は「写生の邪魔になるのとまだ陽気が寒いので自分の伊太利行を三月に延ばした」。そこで、岩田が頼まれたのだという。

「金がない」という岩田の旅行費用の一部を孝吉と川島が持った、とも書く。フランス語ができ、外国の事情にも通じているというので雇われた「ガイド」のようなものだ、と。文面には、欧州滞在が3年に近づき、現地での生活に馴染んだ岩田の自信がのぞく。

ところが、フィレンツェでこの手紙を書く頃には「何奴どいつがガイドだか分りゃしない」[*2]と岩田自身が綴る旅となってゆく。

【註】
*1 獅子文六「ガイド引受けイタリアへ」(1925年2月の書簡)『獅子文六全集』別巻、朝日新聞社、1970年
*2 同上。ルビは引用者。

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