~孝吉の日記~
金。早朝、Padovaへ出懸ける。九時廿分発。
Padova
十時過、Padova着。想像に描いてゐた古風なPadovaはすっかり裏切られた。唯の平凡な市街に過ぎない。先づ始にMadonna del’Arena[*1]に入る。名高いGiotto[*ジオット]の画が壁を充たす。やはり偉大なる画家である。構図もよいものが多い。けれど希臘の芸術を見るよう―にはぴったりと自分を引き付け合一せない。理論からではなくて自分の持ちまえなんだ。唯の自然からの感情から来る事実に過ぎない。古のArena[*2]は公園になってゐる。
次ぎにEremitani[*エレミターニ教会]を見る。十五世紀のfrescoesがある。南側のChapel of Santi Jacopo e Cristoforo[*3]にMantegna[*マンテーニャ]のfrescoesが十二面程ある。あまり多くを期待して来た為か、大しては感じない。実際、dessin[*デッサン]は堅実で強いが、色彩が黒くて好きにはなれない。
そこを出て西方のi Carmini[*カルミネ聖堂]へ行く。battistero[*4]にTitian[*ティツィアーノ]、その他十五世紀のPadova派のfrescoesがある[*5]が、ひどく傷んで見る影もない。Titianのも、この巨匠の作とは云はれないやうなものだ。
アレナの公園で弁当を食う。
Salone[*サローネ。ラジョーネ宮]は大きなあばら屋のやうで、十五世紀の三百のフレスコもつまらない。二つのエジプトの獅子がある。
次に街の南のS.Antonio di Santo[*サント広場にあるサンタントーニオ聖堂]へ行く。Donatello[*ドナテッロ]の彫刻とAltichieri[*アルティキエーリ・ダ・ゼーヴィオ]のfrescoesがある。南側に三つのchiostro[*回廊]もある[*6]。みな大してよいものではない。寺の前の南側にScuola del Santo[*サント同信会館]がある。そこの二階にもTitianその他の十五世紀[*正しくは16世紀]のfrescoesが十七程もある。土ぼこりにまみれて、いたましい。 画もよくない。その隣りのMuseo Civico[*市立博物館]、こゝにも大したものはない。ほしくもないやうなものが多い。この間、自分がSienaで買た板画の方がましだと云ひたくなる。もうつまらないので四時の汽車でVeneziaへ帰る。夕暮、San Marco[*サン・マルコ広場]の方へ散歩する。
【註】
*1 「スクロヴェーニ礼拝堂」を指す。ジオットのフレスコ画が聖母マリアの生涯を描いたものであるため、「アレーナの聖母」とも呼ばれていたらしい。
*2 闘剣の場だった古代ローマの円形闘技場があった。外周壁の一部が現存する。
*3 「オヴェターリ礼拝堂」を指す。マンテーニャのフレスコ画が聖ヤコブ伝と聖クリストフォロス伝を題材としていたため、孝吉が携えたガイドブックは「聖ヤコブと聖クリストフォロスの礼拝堂」と紹介していた。礼拝堂は第2次世界大戦中の1944年、連合軍の爆撃で破壊され、孝吉が見たマンテーニャのフレスコ画も砕け散った。ばらばらの破片をつないで一部が修復されている。
*4 「洗礼堂」。カルミネ聖堂に隣接する元修道院で、同信会の拠点として知られる。その後、洗礼堂を経て今は礼拝堂となっている。
*5 ティツィアーノ作とされていたフレスコ画は、孝吉が「この巨匠の作とは云はれないやうなものだ」と見た通り、今ではジローラモ・テッサリ(1480~1561)作と判明している。建物内の他のフレスコ画も、正しくは16世紀のパドヴァゆかりの画家たちの作。
*6 ごく小さなものを含めれば回廊は5つとされている。