~孝吉の日記~
出帆
午後三時、神戸出帆。箱根丸にて。
風雨。川島氏夫妻[*1]に同伴す。
【参考写真】見送る人、見送られる人をつなぐテープが切れ、神戸港を離れようとする箱根丸。第1次世界大戦後の1921年に竣工した総トン数10,420トンの貨客船だった。
『日本地理大系 近畿篇』(改造社、1929年)より
孝吉が残していた箱根丸、榛名丸、筥崎丸の船内配置図。ラウンジにはピアノが置かれ、最上階には子どものためのスペースがある。書き込みによると、孝吉の自室は112番だった。
■船出
見送りの人々に下船を促す銅鑼がけたたましく打ち鳴らされる。出港を告げる汽笛が神戸港埠頭に響き渡る。孝吉同様、神戸から日本郵船の箱根丸に乗り込んだ僧侶、原宜賢[*2]によると「怪獣の嘯くような」大きな音だった[*3]。
海外渡航が珍しかった時代だ。日本と欧州を結ぶ旅客機はもちろんなく、見送る人、見送られる人に万一があっても駆け付けるわけにはいかない。今生の別れになる可能性すら互いに胸に秘めていた。見送りの人はさぞ大勢だったのだろう。船と陸をつなぐ色とりどりのテープは「美しい織布をのべたやう」だった。この時陸側にいて、建築設計事務所を一緒に営む弟、岡田捷五郎[*4]を送った信一郎[*5]が光景を書き留めている[*6]。孝吉が握るテープの先にも、渡航を支援した父、孝七をはじめ、きょうだいの家族ら大勢がいた。
もっとも、晴れやかなはずの船出は、強風吹き荒れる中だった。「帰りがけなど何度吹きとばされかけましたやら」と見送った義姉は振り返っている[*7]。冷たい風にテープはもつれ、船の離岸とともに引きちぎられる。陸の人影は小さくなっていく。フランス・マルセイユまで41日間の孝吉の船旅はこうして始まった。
【註】
*1 川島理一郎(1886~1971)・エイ(1896~1955)。理一郎は洋画家。夫妻は新婚だった。初渡航だった孝吉が世話になり続け、日記に何度となく登場するので、追って触れる。
*2 原宜賢(1876~1933)。名古屋市の真宗大谷派、正覚寺住職。社会事業を幅広く手掛けた。
*3 『印度仏蹟緬甸暹羅視察写真録』東光堂、1926年
*4 岡田捷五郎(1894~1976)。建築家。東京美術学校を卒業し、当時は兄の元で働いていた。後に東京芸術大教授。滞欧中、孝吉が何度か行動を共にする。
*5 岡田信一郎(1883~1932)。建築家。主な作品に歌舞伎座(空襲で焼失)、明治生命館(重要文化財)など。早稲田大、東京美術学校の教授として多くの後進を育てた。
*6 「弟を送って」 『中央公論』1925年1月1日号、中央公論社
*7 1925年5月30日付、孝吉宛ての大橋ハツ書簡。