1924(大正13)・11・18 香港

~孝吉の日記~

香港
未明、船、香港に入る。快晴。
午前、朝食後上陸。立派な欧風の市街を行き、Tram[*ケーブルカー]にてPeakに登る。風光絶佳。道路の美くしきに感心す。南国の濃厚な草花樹木の間、白き洋館の別荘の点在美くし。陶陶仙館にて支那料理の昼食をす。それより市場にて果実を買ひ込み、駕籠かごにてPublic gardenへ登る。公園の道路、草花咲き乱れてよく色調を作る。油絵の好材料数へ切れず。下りて又、市街を散さくして船に帰る。夕なり。夜の香港の灯火点々としてまばゆく輝くを甲板に飽かず望む。夏の納涼の景色なり。
香港の樹木、建築、道路その他の設備のゆったりとして強大なるを日本にもほしく思われて羨望の至りなり。
ヤッシャ・ハイフェッツ氏乗船。石原廣一郎ひろいちろう[*1]乗船、同室。

香港・ピークより、眼下に広がる街並み。高層ビルが林立する今とは随分光景が違う(1924年11月18日)=撮影・孝吉

■幻? 「帝都復興の恩人」ハイフェッツの箱根丸乗船

この日、孝吉が香港から乗船してきた人として記したヤッシャ・ハイフェッツ(1901~87)。同船者となったというだけで、孝吉には嬉しいことだったに違いない。

なにしろ、世界を代表するヴァイオリニストだ。しかも日本では関東大震災後の被災者支援公演が記憶に新しい人だった。

ハイフェッツはロシア帝国下のヴィルナにユダヤ人として生まれた。今のリトアニアの首都、ヴィリニュスに当たる。父の手ほどきでヴァイオリンを始め、5歳で公開演奏会の舞台に立つ。11歳だった1912年に早くもベルリン・フィルハーモニー管弦楽団と共演した。同年に演奏を聴いた著名なヴァイオリニスト、フリッツ・クライスラーは同席した他のヴァイオリニストたちに言った。「我々は自分たちのヴァイオリンを叩き割った方がよさそうだ」。まさに神童だった。


日本の土を初めて踏んだのは17年。故郷ヴィルナには15年、ドイツが侵攻。17年にはロシア革命が起こっていた。混乱するロシアを一家で離れ、シベリアを横断して日本へ。船で米国へ向かうまで約2週間を過ごした。秋に米カーネギー・ホールで行った公演は大成功を収める。そのままロシアに戻らず、25年に米国の市民権を得た。

関東大震災後の1923年11月に京都であったハイフェッツの演奏会プログラム(表)

思い出の日本では23年9月、東京で公演をするはずだった。だが、9月1日に関東大震災が発生。アジアに向けて太平洋を進むカナダの客船「エンプレス・オブ・ロシア号」上で被災者支援のコンサートを開く。集めた義援金は約3千円。東京の公立小学校教員の初任給が40~55円の時代だから、今の貨幣価値に換算してざっと1500万円ほどに当たろうか。到着した神戸で託した。

会場として予定されていた東京の帝国劇場は震災で火に包まれ、公演は中止に。だが、中国訪問後の11月に東京に入る。焦土と化したまちをカメラを手に見て回り、無傷に近かった帝国ホテルで3日間公演した。12日には急遽、被災者支援の野外演奏会を日比谷公園音楽堂で開く。入場料は、帝国ホテルでの一般10円に対し、1円。約3600人が詰めかけた。

被災地再生の願いを込めての選曲だったのだろう。ベートーヴェンの劇音楽《アテネの廃墟》から《トルコ行進曲》など2曲を含めた[*2]。聴衆からは「ハイフェッツ万歳」の声が上がった、と翌日の新聞が熱気を伝えている[*3]。経費を除いた約2800円を東京市に寄付した[*4]。落胆、絶望し、疲弊する被災者に思いを寄せ、素晴らしい音色を届ける。それも含めて、雑誌[*5]が後に書くように「帝都復興の恩人」だった。

同プログラム(裏)。東京公演とは曲目がかなり異なっていた。

日比谷の熱気の5日後、17日の京都公演に孝吉が足を運んでいる。関東大震災で東京・川端画学校で学び続けることを断念し、京都に戻っていた。

残していたプログラムによると、ハイフェッツが第2部冒頭に据えたのは《ヘブライ情調》だった。自身が編曲を手掛け、後年にはアンコールでよく演奏した曲だ。今は《ヘブライの旋律》と訳される。作曲者ジョゼフ・アクロン(1886~1943)は、ハイフェッツとヴァイオリンの師を同じくするユダヤ系の友人。その末弟がこの日のピアノ伴奏者イシドール・アクロン(1892~1948)だった。やはり22年に米国に移住し、ハイフェッツの伴奏者になったばかり。思いのこもる演奏だったことは想像に難くない。

「天才の偉大なる芸術は神とよりいふ事は出来ない」。孝吉は技巧に驚き、日記で称賛している[*6]

1925年5月19・26日にパリのオペラ座であったハイフェッツの演奏会チラシ(表)。聴いていないとみられるのに孝吉がわざわざ持ち帰ったのは、ハイフェッツへの思い入れゆえだったろう。

ハイフェッツは「旅する演奏家」だった。200万マイル以上を旅したと話していたという[*7]。約321万キロ。地球を80周した計算になる。誇張ではないだろう。公演記録の収集を進めている公式サイト[*8]によると、例えば27年は次のように移動している。

スペイン→エジプト→インド→ビルマ(現在のミャンマー)→シンガポール→中国→フィリピン→オーストラリア→ニュージーランド→ハワイ→米国本土→メキシコ

この間、リストに上がっているだけで実に81回も公演している。

第2次世界大戦後まで旅客機は一般的ではない。今の私たちがバスに乗るように客船に乗り、世界中を精力的に演奏して回った。

裏は19日分のプログラム

日本には31年、54年にも来演。ロシア革命を経て建国されたソ連には34年に1度だけ公演で戻った。英委任統治下のパレスチナと建国後のイスラエルも計5度演奏に訪れている。うち53年には、ナチスに加担したとして同国で拒絶反応の強い作曲家リヒャルト・シュトラウスの曲を弾き、暴漢に鉄棒で殴られた。

孝吉はフランスに到着した翌年、パリのオペラ座で開かれたハイフェッツの演奏会のチラシを手にしている。さらに、日本郵船の船で日本へ戻る27年3月、シンガポールを出港した日の日記に書く。「ヤッシャ・ハイフェッツ氏も乗る」[*9]。世界中に神出鬼没の演奏家とはいえ、往航、復航とも同船なんて偶然があるのだろうか。

先の公式サイトを確かめた。27年のシンガポール、香港の公演日程から、復航で同船だったのはほぼ間違いない。ところが、箱根丸に乗ってきたという24年のこの日にはなんと、米国で演奏していたことになっている。箱根丸乗船は人気が生んだ噂に過ぎなかったのだろうか。

ハイフェッツは72年、後進育成の資金をつくるため最後のリサイタルに立つ。関東大震災から半世紀近くになろうとしていた。アンコールの求めに応じて最後に奏でたのは《海のささやき》[*10]。波がたゆたい、陽光がきらめく穏やかな海の光景が目に浮かぶ曲だ。七つの海を何度となく渡り、海を愛した人ならではの選曲だった。

【註】
*1 石原廣一郎(1890~1970)。石原産業の創業者。マレー半島などで鉱山開発を手掛けた。後述する。
*2 1923年11月13日付、東京朝日新聞朝刊
*3 同
同日付、読売新聞朝刊
*4 1923年11月13日付、東京朝日新聞朝刊
   同14日付、読売新聞朝刊
*5 『帝劇』45号(1926年8月号)帝国劇場文芸部、1926年7月
*6 1923年11月17日、孝吉の日記(個人蔵)
*7 アーチャー・ウェシュラー・ベレッド著、木邨和彦訳『ヤッシャ・ハイフェッツ』旺史社、1989年
*8 ヤッシャ・ハイフェッツ公式サイト
https://jaschaheifetz.com/(2024年11月18日最終閲覧)
公演リストは若い時期を中心に「不完全」だとして、まだ記録の収集、訂正を進めている。
最終閲覧日時点で、日比谷、京都での公演はリストに上がっていない。
*9 1927年3月16日付、孝吉の日記(個人蔵)
*10 《海のさざめき》とも訳される。マリオ・カステルヌオーヴォ=テデスコ作曲、ハイフェッツ編曲。テデスコ(1895~1968)はユダヤ系のイタリア人。ファシスト政権から逃れ、1939年に米国に渡った。ハイフェッツは同国での活動を支えた。

【他の主な参考文献】
ジャン=ミシェル・モルク著、藤本優子訳『偉大なるヴァイオリニストたち』ヤマハミュージックメディア、2012年

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