1924(大正13)・11・12

~孝吉の日記~

晴。夜、十五夜、明月。海、波美くし。

■孫文の特使

日本を後にした箱根丸は海を越え、次の寄港地、上海へ向かう。この日朝、ライティングルームで、画仙紙に向かって筆を振るう男性がいた。

中国の軍人で、政治家でもあった李烈鈞(1882~1946)。中国革命を目指す孫文(1866~1925)の特使として、手を携えて欧米列強と対抗しようと日本の各界に働きかけての帰途だった。

狭い船上とはいえ、孝吉は言葉を交わさなかったのかもしれない。日記は簡潔で、李烈鈞には触れていない。だが名古屋市を拠点に社会事業を手掛けた僧侶、成瀬賢秀けんしゅう[*1]が目にし、旅行記『印度遊記』(中西書房、1928年)に書き留めている。同行の友人で、やはり社会事業に力を注いだ先述の原宜賢ぎけん[*2]も『印度仏蹟緬甸ビルマ暹羅シャム視察写真録』(東光堂、1926年)で触れ、同伴の軍人についても記す。

海を進む箱根丸(撮影日・場所不明)=撮影・孝吉

李烈鈞と日本の関わりは深い。それはそのまま、革命を目指して孫文と歩んだ歳月の長さにもつながる。日本に渡ったのは1904年。陸軍士官学校などで学んだ。翌年、孫文らが清朝打倒へ東京で「中国同盟会」を結成。李烈鈞も加わっている。

11年の辛亥革命で、中国を分割支配する列強に妥協的だった清朝が倒れ、中華民国臨時政府が成立した。だが、孫文の後に臨時大統領に就任した袁世凱は独裁色を強める。李烈鈞らは13年、第二革命を蜂起して敗北。一時、孫文とともに逃れた先も日本だった。

特使として来日したこの時は、孫文が広州に樹立した広東軍政府の総参謀長だった。東京着は10月3日。政府要人や実業家の渋沢栄一、アジア主義者の頭山とうやま満らとの会談を重ね、講演もする。だが、期待した成果は得られなかった。帰国を打診したものの、孫文は13日、なおも留まって努力するよう求める。「貴兄は日本朝野の士と連絡をとり、アジア大同盟をおこして白色人種の侵略に抵抗せんがために派遣されて日本に駐在している。長期にわたって駐在し、この旨を宣伝する任務がある」[*3]

孫文らと手を携える素地が日本になかったわけではない。5月には、米国で排日移民法が成立。先立つ第1次世界大戦後のパリ講和会議では日本が提案した人種差別撤廃提案が否決されており、白人を中心とする世界秩序への不満が高まっていた。一方で、孫文が掲げる不平等条約撤廃は、旅順や大連などに日本が持つ既得権益を脅かす。

孫文は同じ電文で任務の困難さについてこうも書く。「日本政府はいたちのごとく小胆であり、われわれの大アジア主義を敢えて受け入れはしまい」

李烈鈞が箱根丸のライティングルームにいたのは、この電文からほぼひと月後。理解を広げる苦労の後、どんな思いを胸に、両国を隔てる海を渡っていたのだろうか。

成瀬と原は、李烈鈞に揮毫きごうしてもらっている。成瀬向けには、隷書の「虚静きょせい恬淡てんたん」。写真が旅行記に収められている。無心で平静、といった心構えだろう。成瀬は「私には最も適応した自省の文字」と受け止めた。原には「鵬程図万里 鶴声聞中天」(ほうていばんりをはかり、かくせいをちゅうてんにきく)。壮大な目標を見据えて進み、声は広く社会に届く、といった意味だろうか。

民族解放の果てなき夢を追い続ける李烈鈞の姿勢と意志がにじむ。

帰国後、中国統一に向けて北上する予定だった孫文に、日本に立ち寄ってから向かうよう説き、孫文に伴って日本へとんぼ返りする。11月25日、神戸オリエンタルホテルで撮影された写真に、立派な八字ひげを蓄えた李烈鈞の姿がある。会談のため東京から出向いた頭山満と孫文の後ろに立ち、まっすぐにカメラを見据えている。

孫文は自らが乗り込んでも日中提携をそう進められず、翌25年3月12日に没する。「革命いまだ成らず」とし、志を後に託す遺書が残された。

孫文や李烈鈞の信頼と期待を裏切って、日本は中国侵略の度を深めていく。

【註】
*1 成瀬賢秀(1876~1945)。名古屋市の真宗大谷派、正福寺住職。
*2 原宜賢(1876~1933)。同、正覚寺住職。
*3 「李烈鈞に依然として日本に滞在し、アジア大同盟の結成を宣伝すべき旨を命じた電文」 『孫文選集』第3巻、社会思想社、1989年

【他の主な参考文献】
嵯峨隆「孫文のアジア主義と日本」 『法学研究 法律・政治・社会』慶應義塾大学法学研究会、2006年

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