1924(大正13)・11・11 玄界灘

~孝吉の日記~

午後出帆。玄界灘より夜にかけて風浪。明月にて壮快。

26歳の大橋孝吉

■画かきになろうという男

「幼い頃から、絵さえ描かせておけばご機嫌だった」。親族にそう伝わる少年、孝吉は、12歳で京都市立美術工芸学校(美工)の予科に進み、絵描きへの道を歩み始める。

孝吉にとってごく自然なことだったろう。当時の実家界隈には、ここかしこに画家が暮らしていた。呉服を手掛ける家には画家の出入りもある。絵筆が身近にあり、美術は生活の中にあった。

呉服に携わる家からは多くの画家が羽ばたいた。美工で指導に当たった日本画家、都路つじ華香かこう(1871~1931)は、友禅を描く父のもとに生まれている。今尾景年(1845~1924)、後に孝吉が活動する国画創作協会第二部や国画会を率いた洋画家、梅原龍三郎(1888~1986)の実家は、分業で成り立つ着物のプロデューサーである悉皆しっかい業を営んでいた。

孝吉が入学した美工は、産業界の強い要望を受けて1880(明治13)年に開校した京都府画学校(現在の京都市立芸術大)を前身とする。実業教育の場であり、呉服業界の期待も背負っていた。

とはいえ、絵筆だけで食べていくのはたやすくない。「絵描きは一家に1人でいい」。後年、そう言ってわが子たちが画家になるのを決して許そうとしなかった孝吉だが、自身は父、孝七や兄、姉らの理解に恵まれた。

孝吉の旅券(26センチ×20センチ)。渡航目的を「美術研究」とし、目的地として12カ国も挙げている。「希臘国」が含まれ、出発前からギリシャ行きの可能性を視野に入れていたことが分かる。

美工本科から、同じ敷地にある上級学校の京都市立絵画専門学(絵専かいせん)へ進学。美工・絵専を通じての師だった入江波光(1887~1948)のほか、竹内栖鳳(1864~1942)ら充実した教授陣の下、教養科目のほか、写生や運筆、模写などの実技を徹底的に学んだ。当時の写生や素描が今も親族の元に数多く残る。美学者、中井宗太郎(1879~1966)の美術史の講義からも大きな影響を受けた。

ただ、国粋主義の高まりもあり、同校には当時、西洋画科はなくなっていた。セザンヌやゴッホの作品を通じて油彩画への関心を深めた孝吉は卒業後、東京の川端画学校[*1]で今度は洋画を学び始める。授業の中心は石膏像と人体の写生で、この時期の裸体の素描もたくさん残っている。

だが1923年9月、関東大震災が発生。九段坂上から見た東京の街は火の海だった。もはや絵どころではない。同校での学業を3年半で打ち切り、京都に戻る。

京都は関東大震災後、関東を離れざるを得なくなった人を大勢受け入れ、力を得たまちだ。画家の岸田劉生(1891~1929)。小説家の谷崎潤一郎(1886~1965)。晩年に孝吉と古美術や庭園を見て歩く仲間となる映画監督の溝口健二(1898~1956)。だが孝吉は、その京都を離れることを決める。

折しも、関東大震災があった1923年には、入江波光と中井宗太郎、次いで絵専の先輩である土田麦僊(1887~1936)らが続々と欧州から帰国した。孝吉は京都に帰り着いた翌月、美工・絵専を通じての親友、岡村宇太郎(1899~1971)とともに波光宅を訪ね、エジプトやギリシャから持ち帰ったものや油彩画を見せてもらっている[*2]。この時期、渡航への思いを募らせたのは間違いない。

1年を経て、26歳の孝吉は船上の人となった。

渡航までの全国公募展入選は1回切り。奈良の春日野を描き、1917年の第11回文展に出品した19歳時の作《神苑》(6曲1隻屏風)がそれだ。岩田豊雄(後の小説家、獅子文六。1893~1969)が旅先のイタリアから、連れ立っている孝吉について手紙に書いている。「かきになろうという若い男」[*3]。その通り、「画家」とはまだ言い切れない存在だった。

【註】

*1 1909(明治42)年、東京美術学校日本画科教授だった川端玉章の提唱で、東京の小石川区(現在の文京区)に開校。玉章没後の1913(大正2)年に洋画科を設け、藤島武二の指導で人気を博した。他の教師に富永勝重。1945(昭和20)年、空襲で校舎を焼失、活動を終えた。
*2 1923年10月11日付、孝吉の日記(個人蔵)
*3 1925年2月の書簡 『獅子文六全集 別巻』、朝日新聞社、1970年

【他の主な参考文献】

江川佳秀「川端画学校沿革」 『近代画説』 13号、明治美術学会、2004年

第11回文展入選作の大橋三峡《神苑》(172センチ×360センチ、個人蔵)。同年の美工卒業制作《あせびの花》(4曲1隻屏風、京都市立芸術大学芸術資料館蔵)を基に手掛けた。奈良の春ののどかさを柔らかな曲線と穏やかな色彩で表現し、孝吉の奈良への愛情と穏やかな人柄も伝える。洋画を学ぶようになった後も日本画を描いたが、公募展に出品して入選した日本画はこの1点のみとみられる。孝吉は「三峡」の雅号と実名を使い分けた。

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