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1924(大正13)・11・17
~孝吉の日記~快晴。追手の風。 デッキビリヤード、デッキゴルフ等して遊ぶ。夜、社交室にlittle concert開かる。西洋人のピヤノ、Missの声楽、山中氏[*1]のセロ[*チェロ]独奏等あり。旅芸人風の西洋婦人の歌数番、奇抜。 ■中央食堂と成瀬賢秀 誰もがひもじい思いをしない社会を目指したい―。第1次世界大戦中からの物価高騰に庶民が苦しむ中、健康的な食事を安く提供する場を設ける動きが全国各地に広がった。 東京では、1918年1月に設けられた「平民食堂」。同年7月に富山で起こり全国に波及した... -
1924(大正13)・11・16
~孝吉の日記~追手の風。快晴。海水漸く碧色。夜、食堂にて法話あり。面白からず。 ■仏教発祥の地へ向かった原宜賢 箱根丸は針路を南に取り、次の寄港地、香港へ向かう。16、17両日は終日を海の上で過ごす日だ。船上では乗客を退屈させまいと、夕食後にさまざまな催しが企画される。 この日、神戸を発って初めての講演会が開かれた。講師として白羽の矢が立ったのは、すでに何度も触れた原宜賢(1876~1933)。面白くない、と孝吉が日記で評した法話は、この講演会のことだった。 原自身は「『満きそ... -
1924(大正13)・11・15 上海出港
~孝吉の日記~正午、上海出帆。快晴。揚子江河口の大なるに驚く。黄色い泥海を行く。 この日の箱根丸朝食メニュー ■ 欧州航路のメニュー 100年前の欧州航路の客船ではどんな食事が出されたのだろうか。 旅のさまざまな資料を取っておいた孝吉だが、船内のメニューはこの日、1924年11月15日のものしか残っていない。しかも朝食、昼食だけで、残念ながら夕食分はない。 欧州航路の乗客は多国籍。孝吉が残したメニューは英語で書かれている。食の単語を覚えようとしたのか、たくさん書き込みをしている。... -
1924(大正13)・11・14 上海
~孝吉の日記~朝より海岸通を散歩して正午、汽船に帰る。 当時の上海=撮影・孝吉 ■旅を共にしたかった人 岡村宇太郎 その1 孝吉がこの旅をぜひ共にしたいと願った人がいた。 「無二の親友」[*1]だった岡村宇太郎(1899~1971)[*2]。土田麦僊や村上華岳ら京都市立絵画専門学校(絵専)の先輩たちが旗揚げした国画創作協会で、この年に会友となっていた日本画家だ。この日、岡村宛てに異国の印象を書き送ったはがきは、すでに神戸出港後の第2信だった。 最初のはがき[*3]の日付はたった... -
1924(大正13)・11・13 上海
~孝吉の日記~ 上海 黎明、揚子江をさかのぼる。悠々とした大陸を初めて見て心悦れて夜はよく寝込む。 上海での孝吉 ■異国の第一歩 「上海は堂々たる洋館が並んで支那といふよりは西洋とも思われました」。宿泊先の豊陽館から翌14日付で友人に送った孝吉のはがき[*1]は、ひと飛びに欧州に着いてしまったかのようなまちの印象を伝えている。 上海は当時から国際色豊かな近代都市だった。英米の共同租界とフランスの租界が広がり、商業と貿易で発展。きらびやかさと、文化のるつぼともいえる多様性で、世界中... -
1924(大正13)・11・12
~孝吉の日記~晴。夜、十五夜、明月。海、波美くし。 ■孫文の特使 日本を後にした箱根丸は海を越え、次の寄港地、上海へ向かう。この日朝、ライティングルームで、画仙紙に向かって筆を振るう男性がいた。 中国の軍人で、政治家でもあった李烈鈞(1882~1946)。中国革命を目指す孫文(1866~1925)の特使として、手を携えて欧米列強と対抗しようと日本の各界に働きかけての帰途だった。 狭い船上とはいえ、孝吉は言葉を交わさなかったのかもしれない。日記は簡潔で、李烈鈞には触れていない。だ... -
1924(大正13)・11・11 玄界灘
~孝吉の日記~午後出帆。玄界灘より夜にかけて風浪。明月にて壮快。 26歳の大橋孝吉 ■画かきになろうという男 「幼い頃から、絵さえ描かせておけばご機嫌だった」。親族にそう伝わる少年、孝吉は、12歳で京都市立美術工芸学校(美工)の予科に進み、絵描きへの道を歩み始める。 孝吉にとってごく自然なことだったろう。当時の実家界隈には、ここかしこに画家が暮らしていた。呉服を手掛ける家には画家の出入りもある。絵筆が身近にあり、美術は生活の中にあった。 呉服に携わる家からは多くの画家が羽ばたい... -
1924(大正13)・11・10 門司
~孝吉の日記~午前、門司着。午後、門司上陸、市街見物。 ■父と子 孝吉は1898(明治31)年、京都市に父、孝七(1859~1938)、母イノ(1866~1902)の五男として生まれた。4歳にして母が病没する。闘病中からしばらくその実家に預けられていた孝吉に、実母の記憶はない。17歳の時には弟も失い、多感な時期に無常観を抱くようになる。 そんな孝吉が不憫だったか、孝七は家の中で末子となった孝吉をかわいがり、旅にもよく同伴した。孝吉のこの海外渡航を中心となって支えたひとりである... -
1924(大正13)・11・09 神戸出港
~孝吉の日記~出帆午後三時、神戸出帆。箱根丸にて。風雨。川島氏夫妻[*1]に同伴す。 【参考写真】見送る人、見送られる人をつなぐテープが切れ、神戸港を離れようとする箱根丸。第1次世界大戦後の1921年に竣工した総トン数10,420トンの貨客船だった。『日本地理大系 近畿篇』(改造社、1929年)より 孝吉が残していた箱根丸、榛名丸の船内配置図。ラウンジにはピアノが置かれ、最上階には子どものためのスペースがある。書き込みによると、孝吉の自室は112番だった。 ■船出 見送りの人々...