~孝吉の日記~
曇。土曜日。室内で小さいスケッチを始る。
夜は岩田さん[*岩田豊雄]、柏村さん[*柏村次郎]など見えて晩飯。後、トランプをして遊ぶ。
■岩田豊雄と柏村次郎
フランスで演劇の研究に打ち込んだ岩田豊雄(後の作家、獅子文六)は、ドイツの演劇も覗いておこうという気になる。だが、ドイツ語はとんと分からない。「誰かの世話にならなければ、芝居歩きもできない」。そう思っていたところに紹介されたのが、ドイツにいた柏村次郎だった[*1]。
次郎は1893(明治26)年、東京に生まれた。長州藩士だった祖父、信は明治維新に際して旧藩主の毛利家とともに上京し、家の事務や会計を司る家令となった。十五銀行の支配人となり、日本初の電力会社、東京電燈の設立者のひとりとして社長も務めた。父、孝正は次郎が11歳のとき、米国での万国博覧会と欧州の電気事業視察の帰途、船中で病没している。それでも次郎は祖父と母の下、経済的に不自由することなく育った。
次男だが、長男は夭折。名家の事実上の長男としての期待を背負った。だが、次郎にとって家のくびきは疎ましく逃れたいものだった。一方で、家の由緒を大切にする母を悲しませたくはない。そのはざまで、深い葛藤を抱えていた。
次郎は文学青年だった。早稲田大学英文科に入学以前から小説などを書き続け、回覧雑誌をつくった。在学中におこした同人誌は卒業後に他の雑誌と合同して『基調』となり、文を寄せている。
26歳だった1919(大正8)年、雑誌『中央美術』の編集助手をしていたころの作に、「祖父の肖像」と題する小説[*2]がある。人物設定などを変えてはあるものの、次郎自身の悶々とした胸の内をそのまま投影している。
主人公には、画家になる夢を抱きながら、父の意を受け事務に携わっている男を据えた。他人の原稿をタイプする仕事に人生を費消する情けなさ。父が偶像化している祖父の肖像画への反発。男は「俺は俺に生きるのは無論だ、どこまでもさうして行く」と自分に言い聞かせる。だが、父に対する血縁の情から「いくらもがいても、俺はその情愛の制縛を断ち切ることが出来ないらしい。さうだ全く繋がれてゐるのだ」と自覚し、苦しむ。
作中、会社から帰宅した主人公は机の前に寝そべりながら思う。「いつそやめてしまつて好きな藝術を暇にあかせてやつて見たい」
次郎自身が作中人物のその願いを行動に移すのは、志願した兵役を終えた後の1922(大正11)年5月。神戸から欧州行きの船に乗る。
目指す先はドイツだった。早大在学時の進級論文[*3]がゲーテの恋愛叙事詩『ヘルマンとドロテーア』を扱っていれば、卒論もゲーテ。ゲーテの国での研究は在学中からの念願だった。ドイツには幼少時に養女となって別れた3つ違いの妹、秀もいた。文通し、会いたいという思いも抱き続けていたという。
次郎とともに『基調』の同人だった吉田甲子太郎は、次郎がこの時期に渡欧した理由をもうひとつ挙げる。兵役を済ませた後、周囲から勧められていた結婚だ。「卒業の少しく前から烈しいプラトニックな戀愛に陥つてこれに心を破られた彼は、世俗的な結婚談に心を傾ける意はなかつた」[*4]。
家が決める結婚からの逃走だった。
岩田は24年9月、紹介された柏村次郎にベルリンで初めて出会う。『新劇と私』(1956年、新潮社)に「Kというゲーテ研究家」と実名を伏せながら、1カ月余りに及ぶ柏村とのベルリンでの日々を振り返っている。「その男が東京生れで、酒好きときてるので、忽ち仲良くなり、彼の下宿に同居して、ほとんど毎日、二人で劇場通いをした」
辿ってきた足跡が不思議に重なる者の出会いだった。すぐさま親しくなったのは、決して単にそろって実家が関東にあり、酒好きだったからではなかっただろう。
2人は同い年の31歳だった。そればかりか、育ちも似ていた。岩田の父、茂穂は大分県・中津藩士の家の生まれ。横浜の一等地である外国人居留地に店を構え、絹物貿易を手掛けた。その父を、長男の岩田は9歳で亡くしている。父の没後、商売は傾き廃業する。それでも父の遺産などを元手に私費で渡航しており、恵まれた家だったといえよう。
岩田も10代のころから友人たちと回覧雑誌をつくり、文学で身を立てる志を持って渡欧した。岩田がマルセイユに着いた22年5月に、柏村は神戸を出港。出会うまで2年半を経て、まだ約束された未来がない点も一緒だった。
もうひとつ、2人を近づけたに違いない共通点があった。渡航先での恋愛である。岩田にはフランス人のマリー・ショウミー、柏村にはドイツ生まれのエルナ・レスマンという恋人がいた。吉田によると、エルナは「ベルリンの酒場に酒を酌む美しい女であった」[*5]
なにしろ日本人の国際結婚などまだ稀な時代だ。懐具合から25年の帰国を考えていた岩田は「マリイとは、その時に、別れるつもりだった」と綴っている。「彼女も、結婚なんて、下らないことだ―お互いに、よい記憶を懐き合って、次ぎの人生を送れればいいというようなことを、いっていた」[*6]
とはいえ、「彼女が穫られなければ、もう、私の人生がないように思った」[*7]というほど惚れた末に結ばれ、同棲していた相手だ。岩田の演劇の研究に理解があり、支えもしている。法律婚はしていなくとも、マリーは24年12月にパリに到着した川島夫妻、本名夫妻、孝吉の前ですでに妻のように振る舞い、公認の関係になっており、好感を持って受け止められていた。帰国時の別れを合意していたとしても、離れ難い思いはあっただろう。
片や柏村は、裕福な青年がフランス革命の戦乱を逃れてきた少女を妻とする叙事詩『ヘルマンとドロテーア』に心酔した人である。自分の都合でエルナに別れを告げることは考えなかったに違いない。
問題は、旧長州藩士の由緒を守ろうとする家だった。山口県人とでなくては結婚を許さない。そんな親戚がいた[*8]。実際、養子だった父も、妹の養父も山口県の士族。外国人女性を妻に迎えるとなれば、強く反対されるのは明らかだった。帰国を見据え、柏村が抱えた苦悩は想像に難くない。
岩田と柏村は25年5月末、同じ船に乗り合わせてマルセイユから帰国の途に就く。
【註】
*1 岩田豊雄『新劇と私』新潮社、1956年
*2 柏村次郎『ヘルマンとドロテアの研究』(柏村次郎遺作編纂会編・出版、1930年)所収
*3 「ヘルマンとドロテアの研究」。同上。同書はこの表題作のほかに、京都府福知山町(現在の福知山市)で1907(明治40)年の大水害に遭った経験を基に書いたとみられる「みづの後」など、小説や随筆、論文、評論を収めている。
*4 「柏村次郎小傳」。同上。吉田甲子太郎(1894~1957)は英文学者、児童文学作家、翻訳家。早大英文科で柏村の同級生だった。
*5 同上
*6 獅子文六『父の乳』新潮社、1968年
*7 同上
*8 吉田甲子太郎「柏村次郎小傳」柏村次郎『ヘルマンとドロテアの研究』柏村次郎遺作編纂会編・出版、1930年
【他の主な参考文献】
獅子文六「ドイツの旅」(1924年11月15日付書簡)『獅子文六全集』別巻、朝日新聞社、1970年
牧村健一郎『評伝 獅子文六―二つの昭和』筑摩書房、2019年