1924(大正13)・11・19 香港出港

~孝吉の日記~

快晴。油絵の如き港の景色を望む。
正午出帆。港を出でゝ風光益々美くし。
午後曇。波あり船少々動揺。

■ 同室の人、石原廣一郎 その1

18日に香港から乗船し、同室になったと孝吉が書く石原廣一郎ひろいちろう(1890~1970)は、同郷の人だった。2人とも京都出身。26歳の孝吉に対し石原は34歳で、8つしか違わない。そんなことから、日本郵船が初対面の2人を同室に割り振ったのかもしれない。

石原は後に「南洋の鉱山王」と呼ばれるようになる実業家だ。化学メーカー、石原産業の創業者である。シンガポールにある自宅へ向かうところだった。

京都府紀伊郡吉祥院村(現在の京都市南区)に農家の長男として生まれた。府の農業技手を務めるかたわら、立命館大学の夜間部に学ぶ。先に英領マラヤのジョホール州(現在のマレーシア)でゴム栽培に乗り出していた次弟の新三郎、末弟の儀三郎の後を追って、1916(大正5)年に妻子と海を渡った。自動車のタイヤ需要が生まれ、マラヤがゴムの一大産地となった時期だった。

26歳での初渡航は孝吉と同じだが、父親が田畑を売って事業資金を用立てており、人生を賭けた決断だった。開墾してゴムの木を植え、生長を待つ間に地元の水道敷設に関わったが失敗。17年には英国と地元の資本家以外への大規模な土地払い下げが禁止され、先の見通しも失う。ゴム園を売り払って貿易商に転じるがうまくいかず、いよいよ困窮の淵に立つ。抜け出すきっかけが19年夏の鉄鉱石発見だった。

石原によると、きっかけはシンガポール到着直後に足を運んだ植物園にあった。弟たちとの雑談中、歩道の砂利に目が留まる。褐鉄鉱だった。「この土地には必ず鉄鉱石の山があるに違いない」とにらむ。友人から鉄山の情報を得て川を遡り、山中で鉄鉱石を見つけたという。この地が、29年に詩人、金子光晴が訪れて『マレー蘭印紀行』に綴るスリメダン鉱山となる。

箱根丸で孝吉と同室になったのは、鉄鉱石発見からわずか5年後だった。その間にもう、現地の州政府から採掘権の認可を手にし、母校、立命館大学の創立者で台湾銀行の副頭取となっていた中川小十郎の支えで鉱山開発の資金を調達。川崎造船所社長だった松方幸次郎らの出資を得て「南洋鉱業公司」を設立し、官営八幡製鉄所と供給契約を結んだ。日本への輸送費を抑えるため、州政府の許可を得て鉱山の下流に港まで開く。21年初めには第1便として3千トンの鉄鉱石を日本へ送り込み、年間で早くも14万トンに上った。

むろん兄弟の熱意や努力あっての急成長だが、時も味方した。鉄鉱石に乏しい日本はそれまで大半を中国からの輸入に依存しており、調達先の分散は国策にかなっていた。ゴム需要は第1次世界大戦後の不況で落ち込む。税収増と雇用確保を求められることになったジョホール州政府も、石原の事業を歓迎した。

とはいえ、箱根丸に乗る半年前まで資金繰りはまだ綱渡り。「倒産するかもしれないという状態だった」と後に明かしている。その後、日本で政府の大口融資を引き出し、さらなる輸送費削減へ自社輸送のための運搬船3隻を購入。海運業進出の端緒を開く。融資はマラヤの別の鉱山の買収資金にも充てた。シンガポールへ戻る石原が実業家としての自信を深め、意気揚々としていたであろうことは想像に難くない。〈続く〉

【主な参考文献】
赤澤史朗、粟屋憲太郎、立命館百年史編纂室編『石原廣一郎関係文書』下巻・資料集(柏書房、1994年)
「石原廣一郎」『私の履歴書』第22集、日本経済新聞社、1964年
『石原産業 100年のあゆみ』石原産業、2021年
和田日出吉『二・二六以後』偕成社、1937年
金子光晴『マレー蘭印紀行』山雅房、1940年
同(中公文庫改訂版
2004年)の松本亮による解説

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