~孝吉の日記~
朝より海岸通を散歩して正午、汽船に帰る。
当時の上海=撮影・孝吉
■旅を共にしたかった人 岡村宇太郎 その1
孝吉がこの旅をぜひ共にしたいと願った人がいた。
「無二の親友」[*1]だった岡村宇太郎(1899~1971)[*2]。土田麦僊や村上華岳ら京都市立絵画専門学校(絵専)の先輩たちが旗揚げした国画創作協会で、この年に会友となっていた日本画家だ。この日、岡村宛てに異国の印象を書き送ったはがきは、すでに神戸出港後の第2信だった。
最初のはがき[*3]の日付はたった2日前。洋上でしたためている。すき焼きでの送別会を開き、出発時に京都駅まで見送りに来てくれた礼や、初渡航の「一種云ひ知れぬ心の緊張」を綴るが、海を眺めながら岡村を思う孝吉の姿も覗く。「君の好きなどよめく力強い浪のうねり、それを突ききって進む船の力、陸地の見へない広漠な水平線を眺める事は痛快です」
岡村は11月30日に東京で開幕する第4回国画創作協会展に《暴風雨の後》[*4]を出品しようとしていた。浜に押し寄せる荒々しい波を音まで聞こえそうな迫力で描き、岡村の代表作の一つとなった作品だ。波に対する岡村の思いや出品予定をよく知っての一文だろう。
岡村は波について孝吉に熱く語っていたに違いない。孝吉は12年後に高知の室戸岬を訪ねた際にも、「巨浪奔狂して岩に砕くる荘厳」を伝えようと岡村宛てにはがき[*5]を出している。
槍ヶ岳山頂での岡村宇太郎(後列中央)と大橋孝吉(同右)。草鞋を履き、むしろをまとっている(1921年8月3日)
岡村と孝吉は京都市立美術工芸学校、絵専で一緒に学んだ仲だった。岡村が1学年下だが、小規模な学校のため学年を越えた交流は珍しくはなかった。
最初に長い旅を共にしたのは、2人とも絵専で学んでいた1919(大正8)年の夏。他1人を交えた3人で北アルプスを縦走している。近代登山の人気が高まろうかという時期だった。
信州の大町を出発して西へ向かい、針ノ木峠から今は黒部湖底に沈む渓谷を越え、今度は立山三山から剱岳へと北行。黒部峡谷の鐘釣温泉へ下山した。ガイドとポーターに同行してもらっており、大名旅行といえなくもない。それでも、テントと山小屋に泊まり続けて山中6泊7日もの登山は当時、稀だった。
その2年後の夏、2人は再び北アルプスへ向かう。孝吉はもう京都を離れ、洋画を学んでいた時期だ。ところどころで絵を描きながら燕岳、大天井岳、常念岳、槍ヶ岳を6泊7日で縦走。いったん上高地へ下山後も焼岳、穂高岳と飽くことなく山に登り続けている。
岡村と孝吉を結び付け、共に育んだのは、自然への畏敬だろう。岡村は1924年頃の自分について「只もう夢中に自然の偉大さに目を見張りて制作に努力せり」「自然に対して敬虔な態度に終始している」と『私の画歴』(1951年)に書いている。
孝吉もそうだった。街中に育ったゆえに、自然やのどかな風景への憧れがひときわ強かったともいえる。自然への関心を深め、後に「渓流の画家」と呼ばれる原点となった経験は、1916年夏の初めて北アルプス縦走だった。「自然の大きさ、美くしさに驚いた忘れられない感動の旅であった」[*6]。毎夏を過ごす福井県高浜町に立ち寄って京都に戻り、「偉大な自然を楽しむ事をのぞいては何を楽しむであろう」と綴る。自然の風景を眺めながら働く生涯に憧れ、「高浜の百姓さんになりたくなった」とも書いている[*7]。
肌合いも似通っていたに違いない。岡村は「正直すぎるといつも人から注意」され、「眼前に展開し始めたこの大自然の崇高荘厳に何一筆も加える術を知らなかった」と自らを評する人だ[*8]。孝吉も謙虚な人だった。自然を前にしても画家としては謙虚過ぎるぐらい謙虚で、写実と主観表現との間合いに悩むことにもつながっていく。
2人の2度目の登山の折、燕岳で絵を描いた際の日記に印象的な記述がある。谷を隔てて広がる北アルプスの山々。谷底からごうごうと響く水音。下から湧き上がってくる雲と霧。「とても若輩の自分等の手におへない風景である」[*9]。大自然を前にして、感嘆しながら筆など到底及ばないと語り合う2人。岡村が表現する通りの「敬虔」な姿が目に浮かぶ。
大橋孝吉《燕岳にて》(油彩、47センチ×61センチ、個人蔵)。運び上げてもらった画架を山頂からそう遠くない所に立て、自然の雄大さに「手におへない」と思いながら描いた。
孝吉が渡航を決めた頃、岡村も西洋美術への関心を深めていた[*10]。孝吉にとって岡村は旅先での感動を分かち合い、感じたことを話し合いたい相手だったろう。同行を持ちかけたらしい。だが、実現はしなかった。
代わりに、孝吉は滞在先から手紙を書き続けることを約束したとみられる。「君が来られゝば」と岡村の不在を何度となく惜しみながら見たもの、感じたことについて書き送っている。岡村もまた、制作の近況や画壇の動向などを孝吉に伝え、孝吉を喜ばせた。
2年半にわたる孝吉の渡航中、2人が交わした書簡は、今見つかっているだけで少なくとも計45通に上る。
【註】
*1 1926年7月13日付、パリの孝吉から岡村宛ての書簡(南丹市立文化博物館蔵)。
*2 京都府船井郡東本梅村(現在の南丹市)生まれ。7歳の時、友禅を扱う親類の養子となる。雅号に青空、隆生。京都市立美術工芸学校、京都市立絵画専門学校を卒業後、土田麦僊に師事。国画創作協会、新樹社、玉樹会などに属して活動した。
*3 1924年11月12日付。南丹市立文化博物館蔵。
*4 1920年制作。京都国立近代美術館蔵。
*5 1936年10月13日付。南丹市立文化博物館蔵。
*6 1916年の孝吉の日記(個人蔵)。
*7 1916年9月7日付、同。
*8 岡村宇太郎『私の画歴』(1951年)
*9 1921年7月29日付、孝吉の日記(個人蔵)
*10 前掲『私の画歴』
【他の主な参考文献】
『岡村宇太郎―花鳥・動物画の魅力―』南丹市立文化博物館、2021年