1924(大正13)・11・13 上海

~孝吉の日記~

上海

黎明、揚子江をさかのぼる。悠々とした大陸を初めて見て心よろこぶ。赤い太陽の昇るとき船は上海碇泊ていはく。午前上陸。西華徳路(しわたろ カ)街の豊陽館に投す。日本街、支那町、南京路等歩く。堂々とした洋館建ち並び壮観。日本の洋化も及ばず。湖心亭[*上海最古の茶館]の店の並ぶところを通り抜ける。支那街の不潔は意表外なり。客桟[*旅館]などのある街を通り帰る。人力車の乗心地のよき事と廉なることに驚ろく。見物につかれて夜はよく寝込む。

上海での孝吉

■異国の第一歩

「上海は堂々たる洋館が並んで支那といふよりは西洋とも思われました」。宿泊先の豊陽館から翌14日付で友人に送った孝吉のはがき[*1]は、ひと飛びに欧州に着いてしまったかのようなまちの印象を伝えている。

上海は当時から国際色豊かな近代都市だった。英米の共同租界とフランスの租界が広がり、商業と貿易で発展。きらびやかさと、文化のるつぼともいえる多様性で、世界中の人々を引き付けていた。人呼んで「東洋のパリ」。日本で「魔都」と言われるのは、このまちに魅せられた小説家、村松梢風しょうふうのこの年の作品にちなむ[*2]

日本人にはすでに身近なまちだった。上海在留の日本人はこの頃までに英国人を上回って1万9千人を超え[*3]、最大の外国人勢力となっている。前年には、箱根丸を運航する日本郵船が長崎―上海間を26時間で結ぶ週2便の日華連絡船を就航。長崎では「下駄を履いて上海へ」とさえ言われた。

とはいえ、孝吉にとっては初めての異国。箱根丸に同船した他の人たちも上海の発展に目を見張り、異口同音に驚きを書き綴っている。

「眼前に展開せる大建築は巍々ぎぎとして肩を並べてそびえて居る。銅像があちこちに立つて居る。自動車の来往は矢のやうに飛び交ふて居る」と街の様子を描写したのは成瀬賢秀けんしゅう。「かうした整つた大都会を見たことのない私には、異常な驚きであつた」[*4]

宜賢ぎけんは、全てアスファルト舗装された街路、堂々たる建築物に「繁華」を見、電線の地下埋設にも触れる。「二十八ヶ国の人種が集合して居るとは驚くではないか」と書き、出入りする船舶数、貿易額から商業の隆盛を伝えている[*5]

「上海で気に入つた事―道のいゝこと」。後藤信夫の筆名で雑誌『社会思想』に原稿を書き続けていた松方三郎[*6]も、13日付の最初の渡欧通信の冒頭に道を挙げた[*7]

もっとも、租界は行政権や警察権を外国が握る「半植民地」だ。成瀬は、中国の巡査のほか英米の共同租界にインド人巡査、フランス租界にはベトナム人巡査を見受けるとし、列強の警察権が入り組む中で植民地の人々が働くまちの特異な構造に目を向けた。

日本が第1次世界大戦中の1915年、21カ条の要求を中国の袁世凱政府に突き付けて9年。日本が旅順や大連の租借権を持ったままで、成瀬は「二十一條撤廃」の訴えが電光表示板に多く表示されることも書き留めている。

【註】
*1 岡村宇太郎宛て。南丹市立文化博物館蔵。
*2 村松梢風(1889~1961)。1923年3~5月の上海滞在などを基に『魔都』(小西書店、1924年)を書いた。
*3 和田博文ほか『上海の日本人社会とメディア 1870-1945』岩波書店、2014年
*4 『印度遊記』中西書房、1928年
*5 『印度仏蹟緬甸ビルマ暹羅シャム視察写真録』東光堂、1926年
*6 松方三郎(1899~1973)。ジャーナリスト、登山家。当時、社会思想社の同人だった。
*7 『社会思想』第4巻第1号(1925年1月号)、社会思想社

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