1925・4・9 イタリア・ヴェネツィア

~孝吉の日記~

木。快晴。朝、Accademia[*アカデミア美術館]からstation[*(サンタ・ルチア)駅]の方へあてもなく歩く。美くしい天気が輝く。sketchもした。午後、三人で[*川島理一郎・エイ夫妻と]Giardini Pubblici[*公共庭園]へ行く。目醒むるやうな新緑でのどかだ。明日はVeneziaを去るかと思ふと思出が残る。明月晃晃こうこうとしてゆらゆらとcanal[*運河]つる。gondolaの黒い影が音もなく行く。今日の今夜、吾等を引きとめるやうだ。

■ペトラルカの夜

ヴェネツィアの風景には動きがあり、音がある。

古から旅人たちが魅了されたように、孝吉もそれらが織りなして醸し出すまちの趣に惹かれた。ゴンドリエーレ(ゴンドラ漕ぎ)の歌声や、運河に響くバイオリンとギターの音に耳を傾ける。小さな橋を渡る時、揺らめく水が映る裏窓に目を留める。夜の運河を静かに行くゴンドラの黒い影を見つめる。日記からはそんな孝吉の姿が伝わって来る。ヴェネツィアの女性が好んだ黒い肩かけへの関心も、女性が歩くと翻る長いフリンジ(房飾り)の動きあってのものだろう。

中でも印象的なのは、運河の水面に映る月だった。

岩田と孝吉のヴェネツィア到着は満月の翌日。さらに1日経った2月11日の夜、カナル・グランデ(大運河)に面したカーサ・ペトラルカに泊まっていた岩田豊雄は、その美を1人で見るのは惜しいと眠っている孝吉を起こす。窓の外を一緒に眺め、見とれた。月光に照らされて浮かび上がる対岸の邸館。金の龍のようにきらめきながら水面をうねる月影。ヴェネツィアが海上貿易で繁栄し、「アドリア海の女王」と呼ばれた古の輝きを彷彿とさせる光景だった。

到着初日、宿の食事がうまくないだの、少ないだのと珍しく食への不満を日記に綴った孝吉だったが、川島理一郎・エイ夫妻とヴェネツィアを再訪した4月、カーサ・ペトラルカに舞い戻る。リアルト橋に近い立地や手頃な宿代もさることながら、何より夜の辺りの情緒あってではなかったか。

川島夫妻とともにヴェネツィアを後にする前夜は、折しも満月だった。しかも天気は日記によると「快晴」。夜空も晴れ渡っていたに違いない。カナル・グランデに映る明るい月は、岩田と眺めた時と同じように、ゆらゆらと揺れていた。水面の輝きを散らしながら、ゴンドラが滑るように水面を進む。その光景に「吾等を引きとめるやうだ」と孝吉は綴るが、3人の誰かが後ろ髪引かれる思いを口にしたのだろうか。

この夜からほぼ2年後の1927年2月、帰国を挟んで欧州に戻った川島理一郎は再びヴェネツィアへ向かった。同19日付の孝吉宛ての書簡[*1]に、これからマルセイユを発ってベニス(ヴェネツィア)に向かうと告げ、ベニスだけに1カ月半ほどいるつもりだと書いている。目的に「勉強」を挙げているが、行く先々でカンヴァスに向かった川島のことだ。先人の絵を見ての美術研究にとどまらず、旺盛な制作を意味しよう。25年の12日間の滞在ではとても足りないほど描きたいものを抱え、心残りがあったに違いない。

27年3月28日付のヴェネツィアからの葉書[*2]では、教会の鐘の音とゴンドリエーレの歌声を聴いて暮らしていると伝えた後に綴る。「ベトラルカの思い出は永久に消えませんね」。川島にとっても忘れられない記憶だった。

【註】
*1 エジプト・ポートサイドにいる孝吉宛て。個人蔵。
*2 はがき到着時には日本に帰国している予定の孝吉宛て。個人蔵。

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