~孝吉の日記~
木。快晴。終日稀なよい天気で雲さへない。春の陽気で和風[*春風]嫋々[*そよそよ]として来る。ボート汽船を下りてSan Tomà[*サン・トマ教会]に来てみると閉まってゐる。こゝのTitian[*ティツィアーノ]、Bellini[*ジョヴァンニ・ベッリーニ]の作品は近くのFrariの寺[*フラーリ聖堂]に持て行たことを聞く。Frariに入る。大きな寺である。choir[*「クワイヤ」としているが、正しくは主祭壇]にTitianの聖母被昇天がある。向って左側にTitianの他の大作[*《ペーザロ家の祭壇画》]が一面ある。これは中々むっくりとしてどことなしに感心さゝれる。向て右のchapel[*礼拝堂]にGiovanni Belliniの画がある。Tiepolo[*ジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロ]の沢山の画もある。しかしTiepoloは浅くて感心しない。
隣りのSan Roccoの寺[*サン・ロッコ教会]に入る。こゝには十面程のTintoretto[*ティントレット]の作品がある。Annunciation[*《受胎告知》]の一面が特に好きである。やはりこゝへ来てTintorettoがうまいと感心する。Ducale[*ドゥカーレ宮]のParadise[*ティントレット作《天国》]よりもよいものばかりだ。その又隣りのScuola di San Rocco[*サン・ロッコ大同信会館]、これは又、Tintorettoを語るには見なければならない所である。下と二階の周囲の壁と天井はTintorettoの大作廿面程で充ちてゐる。今迠写真で憧れてゐたよい画がずらりと陳らんでゐるのには喜ばざるを得ない。色もよいが、力と深刻にうたれる。磔刑の大作や
Annunciation
Cristo tentato da Satanasso[*「悪魔に誘惑されるキリスト」。《キリストの誘惑》]
Mosè fa scaturire l’aqua[*《(岩から)水を湧き出させるモーセ》]
La Visitazione[*《エリザベト訪問》]
Last Judgement[*《ピラトの前のキリスト》] 天井
Adam- Eve-[*《アダムとイヴ》]
La Manna nel deserto[*「荒野のマナ」。《マナの奇跡》《マナの収集》]
Last Supper[*《最後の晩餐》]
S.Maria Egiziaca[*《エジプトの聖マリア》] 風景
など高い精神に力強く引き込まれる。うれしさにその場を去り兼ねる。他にTitianのAnnunciation一つがある。正午、hotelに帰る。窓外にcanalが見晴せるよい部屋に替ておいてくれる。食堂は観光客(主に英米のおばあさん)で混雑。あまり感じがよくない。
午後、川島さん[*川島理一郎]とSan Marco[*サン・マルコ寺院]へ行く。十二世紀のビザンチン式のmosaicoは悪くない。しかしmosaico romano[*古代ローマのモザイク]などと較べると典型におちて少し硬い。前のpiazza[*広場]は又、観光客で賑はう。巡行船でお向ひのSan Giorgio Maggiore[*サン・ジョルジョ・マッジョーレ聖堂]へ入る。川島さんは外で油[*油彩画]を始める。Tintorettoの画が四五面ある。中で向て右方の奥のchapelにある埋葬図と右側にある磔刑(Martirio di vari santi)[*《聖コスマと聖ダミアノの殉教》]とLast Supperなどは感心した。汽船でSan Marcoの方へ帰てSan Giovanni in Bragora[*サン・ジョヴァンニ・イン・ブラゴラ教会]へ行く。正面のchoir[*正しくは「主祭壇」]にConegliano[*コネリアーノ]のBaptismの一面[*《キリストの洗礼》]がある。やはりこの人としてはよい出来か。
少し北のS.Giorgio degli Schiavoni[*サン・ジョルジョ・デッリ・スキアヴォーニ同信会館]、こゝにはCarpaccio[*カルパッチョ]の十面程の画がある。中々よい。S.GiorgioとDragonとの闘ひ[*《聖ゲオルギウスと竜》]などがある。よい出来である。少し幾何学的に過ぎるかもしれないが大家だと思う。
町を散歩してhotelへ帰る。夜、バイオリンとギタの音がcanalに響いてVeneziaの花期の時代を追想する。今日は沢山よいものを見た。あまりよいものが多すぎる位だ。

島にあるサン・ジョルジョ・マッジョーレ聖堂から遠望した対岸のドゥカーレ宮やサン・マルコ寺院、鐘楼(孝吉がイタリアで買った絵はがきより)。快晴のこの日も、海はきらめいていただろう。春風の中で川島理一郎が描いたのはどんな絵だっただろうか。

サン・ジョルジョ・デッリ・スキアヴォーニ同信会館(同)。室内をカルパッチョの作品が彩る。