~孝吉の日記~
金。快晴。午前、Villa Umberto Ⅰ[*1]のPalazzo Belle Arti[*2]へ行く。伊太利modern[*近代]の絵画ばかり。一つも取るに足るものがない。伊太利程、古代のよい美術を持ちながら現代はこんなものよりどうして出来ないか不思議である。こんなものなら日本の洋画の方がはるかに進歩してゐると思ふ。美術館は立派でこんな建築が日本にもほしく思ふ。
Villa di papa Guilio[*教皇ユリウスの別荘]のmusée d’antique[*古代美術の博物館] 一名 Museo Nazionale Etrusco[*国立エトルリア博物館]ともいふ を見る。いつもながら幾ら沢山あってもantique[*古代美術]はよい。Etrusco sarcofago[*エトルリアの石棺]、Basi Grecaなどで皆、羨望の種だ。あのどっしりとした重さ、美くしい曲線、やはらかい豊潤な色彩の調和は何ともいへない。S.Maria del Popolo[*サンタ・マリア・デル・ポポロ聖堂]にリッピの画がある[*3]。大した事なし。
午後、Forum Romanum[*4]へ行って写真をとったりした。Forumの南の方にあるSanta Maria Antiqua[*サンタ・マリア・アンティクア教会]は古いruin[*遺跡]だ。六世紀のものである。frescoは七八世紀のもので、落ちてはゐるがなほ美くしい。
Santa Maria Nova[*5](Santa Francesca Romana[*サンタ・フランチェスカ・ロマーナ教会])(九世紀)は古のTemple de Vénus et Rome[*ウェヌスとローマ神殿]の位置をしめてゐる。十二世紀頃のmosaicが一つある。Arc de Septime Sévère[*セプティミウス・セウェルスの凱旋門]の北にある Tullianum[*トゥッリアヌム](Mamertine Prison[*マメルティヌスの牢獄])が見当らなかった。
【註】
*1 ヴィッラ・ウンベルト1世公園。孝吉訪問時、ボルゲーゼ公園がこう改称されていた。第2次世界大戦後のイタリア王政廃止後に元の名前に戻されている。長く親しまれてきた「ボルゲーゼ公園」の方が通りがよかったのか、孝吉が使ったベデカーのガイドブック第2版(1909年)の地図は公園名として「Villa Umberto Ⅰ gia Borghese」(ヴィッラ・ウンベルト1世 旧称ボルゲーゼ)と旧称を添えている。孝吉も2月25日付の日記にはヴィッラ・ボルゲーゼの庭園と書き記している。
*2 Palazzo delle Belle Arti(パラッツォ・デッレ・ベッレ・アルティ)の建物内にローマ国立近代美術館がある。「こんな(美術館)建築が日本にもほしく思ふ」と孝吉が羨望したこの建物は1911年、イタリア王国の建国50年を記念した万国美術博覧会のために建設された。いわば王国の威信をかけた建物で、博覧会の遺産(レガシー)ともなった。
*3 ピントゥリッキオなど他の画家と取り違えた可能性が高い。
*4 フォルム・ロマヌム。イタリア語で「Foro Romano」(フォロ・ロマーノ)。
*5 サンタ・マリア・ノヴァ教会。ラテン語「Nova」、イタリア語「Nuova」(ヌオーヴァ)。

フォロ・ロマーノ内にあるサンタ・マリア・アンティクア教会(孝吉がイタリアで買った絵はがきより)