~孝吉の日記~
快晴。水曜。川島さん[*川島理一郎]と二人でPorta San Paolo[*ポルタ・サン・パオロ駅]から汽車でTiber[*イタリア語なら「Tevere」(テヴェレ)]川口の古都Ostia[*オスティア]の発掘[*現場]へ出懸ける。
Ostia
Pompeiiによく似たRoman town[*古代ローマのまち]である。Castello[*ユリウス2世の城]は発掘品の小さいmuseo[*博物館]となってゐる。torso[*頭部ほかが失われた彫像]などに五六よいものを見受ける。
scavi[*発掘された区域]はPompeiiを三分の一二にした位のものだが、それでも中々広い。広い野原に春風が来て、Tempio di Nettuno[*1]の上で紙籠の弁当を食て楽し。それから自分はあちこちに散在する柱頭や台座の装飾彫刻を写真に写して廻る。所々壁画が残ってPompeii程によいのはないが、やはりよい色の味を持ってゐる。
Sala grande delle Terme[*公共浴場の大きな部屋]にmosaico[*モザイク]があるが、砂でおほはれてゐる。得心する程あちこち漁って夕暮帰る。のどかな一日を過した。夜は散歩に出て停車場近くの活動[*活動写真。映画]を見る。
Ostiaは最近の発掘で、今も続行してゐる部分がある[*2]。
【註】
*1 カピトリウムを指す。今ではユピテル、ユノ、ミネルウァの3神を祀ったとされている。孝吉が持ち帰った絵はがきには、カピトリウムの写真に「Tempio di Nettunoと考えられる」と説明を添えたものがあり、ネプトゥヌス(ネプチューン)神殿とする解釈あるいは誤解が当時あったのかもしれない。
*2 オスティアの発掘は19世紀初めから始まっていたが、現在見られる遺跡の約3分の2はムッソリーニ政権下の1938~42年に発掘された。42年にローマ万博の開催を予定しており、オスティアを紹介してローマ帝国の歴史を誇示し、イタリア文明の称揚を図る狙いがあった。だが、万博は第2次世界大戦で中止された。
孝吉が川島理一郎とオスティアを訪ねたのはムッソリーニが独裁を宣言して2カ月後だが、組織的な発掘にはまだ乗り出していなかった時期。発掘を終えていた場所は今のごく一部でしかなかった。発掘は今も続いている。

カピトリウムを描いたとみられる孝吉のスケッチ。孝吉がカメラを手に遺跡をくまなく見て歩く間に、川島理一郎は油彩画《オスチア廃墟の壁画》(栃木県立美術館蔵)を描いたらしい。

1925年当時、オスティア遺跡からの出土品を展示していたユリウス2世の城(孝吉が現地で買った絵はがきより)。規模を拡大したオスティア博物館は1934年、ムッソリーニ出席のもとに開館した。

ユリウス2世の城から見たオスティア遺跡の絵はがき。撮影年は不明だが、孝吉が1925~26年にイタリアで買い求める以前の遺跡の姿を伝える。発掘された範囲は今では、中央を東西に走る道路「デクマヌス・マクシムス」の南側(写真では左奥)や西(奥)へと大きく広がっている。
の河口にあり、ローマの外港として発展した。(1925年3月11日)=撮影・孝吉.jpg)
オスティアはテヴェレ川(奥)の河口にあり、ローマの外港として発展した。(1925年3月11日)=撮影・孝吉
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ローマ3神を祀ったカピトリウム(同)=同

街の主要道路デクマヌス・マキシムス(孝吉がイタリアで買った絵はがきより)。オスティア遺跡には第2次世界大戦以降にイタリアカサマツや糸杉が植えられ、印象が変わった。孝吉が目にしたのは、木が少なく、よりポンペイに近い姿だった。
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右奥はカピトリウム(1925年3月11日)=撮影・孝吉

同業組合広場(孝吉がイタリアで買った絵はがきより)

「ドーリアの家」に埋められた壺。ワインやオリーブオイルを貯蔵した。(同)