1925・3・1 イタリア・アッシジ

~孝吉の日記~

日曜。雨。朝から曇てゐる。アッシジ、ペルジア[*ペルージャ]、オルビエット[*オルヴィエート]への一人旅に出かける。Roma九時発。Orte[*オルテ]あたりから雨が降り出す。連日の雨の為に川は泥水が溢れて畑も木も水つきの所が多い。なだらかな丘陵の斜面に青草を食ふ羊や牛の群はゆったりとしたものだ。汽車はだんだんと山間に入って行く。Orvietoへ来た時分には、つぶのやうな雨がびしびしと窓をうつ。暗雲が山に下って雨となっておちる。同車中のペルジアへ行く女がフランス語で話かける。
Assisi
ひる過ぎアッシジ着。Hotel Giottoへ宿す。雨が吹き降りとなる。少しの晴間にS.Francesco[*サン・フランチェスコ聖堂]へ行く。Lower church[*下堂]に入った時にはまっ暗で何も見えない。しばらく見てゐてやっと少しは見えるやうになった。全体があまり暗いのでいやになった。
Giottoやチマブエの聖母やローレンゼッチ[*ピエトロ・ロレンツェッティ]などのを見つめてゐると、さすがによくなって来る。色もよい。
Upper church[*上堂]へ上る。こゝは彩光がよいので、ステンドグラスを通た黄色い光が沢山に描かれたGiottoの壁画にあたってよく見える。
法隆寺の壁画のやうにはよいと思はないが、しばらく見つめてゐると夢想してゐた明るい美くしい古代伊太利を旅してゐるやうなうれしさを得た。ゲーテが来た伊太利、ダンテやフランチエスカがゐた伊太利だ。
S.Francescoを出てPiazza Vittorio Emanuele[*ヴィットーリオ・エマヌエーレ広場。現在の「コムーネ広場」]のAugustan[*アウグストゥス]時代のイオニック[*「イオニア式」。正しくは「コリント式」]列柱のportico[*柱廊玄関]を持つTempio di Minerva[*ミネルヴァ神殿]を見てSanta Chiara[*サンタ・キアラ聖堂]いく。大した事はないが、建築は簡素でfacade[*ファサード。建物正面の外観]がよい。雨が降るので宿へ帰て一枚スケッチをやる。夕暮、強風が暗雲を吹きはらって壮大な形となって雲が吹きやられる。澄徹ちょうてつな青空、Umbria[*ウンブリア]の平野を川が巴形[*蛇行する川の図あり]して遠くへ走てゐる。とおくの山まで見わたされて広い大観だ。フィリッポ リッピやボチチェリなどの画のback[*背景]に現われるあの晴朗な美くしい景色を目の前に見る。日が暮れて星と三日月が輝く。churchのAve Mariaの鐘が野にひびく。静かな夜だ。生きた基督教を見せられる。

孝吉がこの日、ホテル・ジオットから眺めたアッシジの街を描いたスケッチ(水彩。個人蔵)。
画家、石井柏亭(1882~1958)が2年先立つ1923年春に画家仲間の正宗得三郎(1883~1962)とアッシジを訪れて同ホテルに泊まり、やはり窓から眺めた街の風景を素描に残している。「一寸日本の大和路の景色に通ずるものがないでもない」とも記しており[*1]、奈良を愛した孝吉の心もとらえたに違いない。

【註】
*1 石井柏亭『美術と自然 滞欧手記』中央美術社、1925年

ホテル・ジオットから眺めたアッシジの街(1925年3月1日)=撮影・孝吉。
当時、実用的なカラーフィルムはまだ発売されておらず、心を動かされたものの色を持ち帰ることもスケッチの動機となった。

ミネルヴァ神殿前の陶器商(孝吉が買った絵はがきより)。撮影者名は記されていないが、リヤカーや人の服装から撮影時期は1925年をかなり遡るとみられる。

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