1924(大正13)・11・10 門司

~孝吉の日記~

午前、門司着。午後、門司上陸、市街見物。

父と子

孝吉は1898(明治31)年、京都市に父、孝七(1859~1938)、母イノ(1866~1902)の五男として生まれた。4歳にして母が病没する。闘病中からしばらくその実家に預けられていた孝吉に、実母の記憶はない。17歳の時には弟も失い、多感な時期に無常観を抱くようになる。

そんな孝吉が不憫ふびんだったか、孝七は家の中で末子となった孝吉をかわいがり、旅にもよく同伴した。孝吉のこの海外渡航を中心となって支えたひとりである。

孝七は染呉服・半衿はんえり商として1代で事業を広げた人だった。実家は「ぎく」の銘柄で知られた京都の造り酒屋「伏見屋」[*1]。三男だったため家を出て、1890(明治23)年頃、近くに呉服問屋を構えた。屋号は「伏見屋」を引き継ぎ、後に「大橋商店」[*2]とする。

明治中期は、写し友禅など染色技術の革新や化学染料の普及で、色鮮やかな友禅染の着物が量産できるようになる時期だった。孝七は呉服業界に飛躍の可能性をみたのだろう。意匠部や染工場を設け、商品を製造から手掛けている。京都のほか、東京・日本橋、大阪・船場にも店を構えた。

京都半襟商組合の役にも就いている。半衿は今ではうんと控え目だが、とりわけ明治後期から戦前までは業者が流行を競い合った。歌会始の題をただちに意匠化する「勅題模様」や、文展出品作を取り込む「文展模様」がはやった時期もある。ありとあらゆるものが意匠に取り込まれ、縮緬を使ったり、絞りを入れたり、ダイヤモンドを施したり、と工夫を凝らした。新作は売れに売れ、大正期には「流行は半襟より生れる」と言われたという[*3]。流行めまぐるしい世界に身を置いた父のもとに、後に普遍の美を求めるようになる息子、孝吉が育ったという事実は興味深い。

孝七は日常生活にも次々に新しいものを取り入れた。江戸期は安政年間の生まれながら、孝吉がものごころついた時にはもう朝食にパンを食べていた。弓を引く一方でゴルフを楽しむ「ハイカラさん」だった。

自身は海外に出たことのない人だったが、養子に出した2人の息子たちは次々に洋行し、いろんなものを身につけて帰国する。孝吉にも海外を見せてやりたいという気持ちは強かったに違いない。

【註】
*1 今の京都市中京区姉小路通東洞院西入ル車屋町にあった。後に醸造を止め販売だけを続けたが、現存しない。1918年の『大日本帝国商工信用録』24版(博信社)の広告によると、竹内栖鳳にちなむとみられる「栖鳳」という銘柄の酒も扱った。
*2 今の中京区蛸薬師通富小路東入ル油屋町にあったが、1代限りで会社を畳んだ。日本画、洋画、古美術を学んで友禅染に絵画的技法を取り入れた染色家の皆川月華(1892~1987)は1914年から大橋商店デザイナーだった。
*3 高島与市郎『和装小物の史実』和装小物の史実出版委員会、1964年

【他の主な参考文献】
青木美保子「京都における染織工芸の近代化―写し友禅・機械捺染・墨流し染」 並木誠士編『近代京都の美術工芸―制作・流通・鑑賞―』思文閣出版、2019年
細田永輔『京都半襟商組合五十年史』京都半襟商組合事務所、1937年

孝吉が育った実家。『御大礼記念写真帖』(恒次夏三郎編、大礼記念出版協会、1916年)によると、写生を重視した円山応挙の掛け軸があるとしている。孝吉は見て育ったのだろうか。

大橋商店の意匠部。絵筆は身近だった。

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