~孝吉の日記~
曇。水曜。朝から狭い折れ曲がった街を通てAccademia di Belle Arti[*1]へ行く。街はきたなく貧民窟のやうだが、Venezia情緒が豊かで時々細いcanal[*運河]の橋を越へる時、裏窓に水のゆらめく景色は好きだ。建物もさびてよい味を持ってゐる。
Accademiaはさすがによいものがある。
Paolo Veronese[*パオロ・ヴェロネーゼ]は大作が沢山あるが、思たより浅い。
Tintoretto[*ティントレット]のよいものが多い。Adam et Eve[*《誘惑されるアダムとイヴ》]、Cain et Abel[*《カインとアベル》]、Miracle de St. Marc[*《聖マルコの奇跡》]、Antonio Cappello[*《アントニオ・カッペロの肖像》]など深い世界が拡がる。その他、Carpaccio[*カルパッチョ]の画も沢山ある。
それより汽船でSan Marco[*サン・マルコ広場]へ行く。Museo Civico[*市立コッレール博物館]がPalazzo Reale[*王宮]に移されたといふのでやっと尋ねて見る。あまりよい画もない。CarpaccioのVeneziane[*《二人のヴェネツィアの女性》]が一枚ある。他に武器など沢山あるがつまらない。
San Marco[*サン・マルコ寺院]へ入る。これもおのぼりだましで、その煩雑な装飾はきらいだ。内部も陰鬱でいやだった。ホテルへ帰て晝食。午後、日本人の土産屋が来て、その店を訪ねる。皮細工もほしくない。それから裏町をあてもなく歩く。小さなcanalの間によい画題が多い。家のくずれた壁、さびた赤れんが、窓、ゴンドラ、どんよりとなみなみした水、黒い肩かけをしたベニス女、子供。皆好きだが、こはい顔貌をした品のよくない男も沢山ゐる。写真をとり、水彩画を一枚描く。夜散歩。向ひ側のcaféで茶をのむ。水にうつる燈火。Veneziaの夜は美くし。
十二時、岩田さん[*岩田豊雄]に起されて見ると、明月カナル[*運河]に金龍を浮べ、月光下にたゝずむVeneziaのcasa[*家] 、palazzo[*宮殿・邸館]の並び、古のVeneziaの夢幻に立かへる。
【註】
*1 ヴェネツィア美術アカデミーと同じ建物にアカデミア美術館があった。

サン・マルコ寺院の絵はがき。実際よりも賑やかに彩色されている。

黒いショール姿の女性の絵はがき。背後はため息橋。

長いフリンジのあるショール姿の女性(1925年4月6日撮影とみられる)=撮影・孝吉。印象的だったとみえ、この他にもショール姿の女性を撮影した写真が残る。

孝吉がこの日描いたとみられる水彩画(48センチ×28センチ、個人蔵)。黒いショールのフリンジを揺らしながら橋を渡る女性の姿を描き入れている。