2024年– date –
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1924(大正13)・11・13 上海
未分類~孝吉の日記~ 上海 黎明、揚子江をさかのぼる。悠々とした大陸を初めて見て心悦れて夜はよく寝込む。 上海での孝吉 ■異国の第一歩 「上海は堂々たる洋館が並んで支那といふよりは西洋とも思われました」。宿泊先の豊陽館から翌14日付で友人に送った孝吉のはがき[*1]は、ひと飛びに欧州に着いてしまったかのようなまちの印象を伝えている。 上海は当時から国際色豊かな近代都市だった。英米の共同租界とフランスの租界が広がり、商業と貿易で発展。きらびやかさと、文化のるつぼともいえる多様性で、世界中... -
1924(大正13)・11・12
未分類~孝吉の日記~晴。夜、十五夜、明月。海、波美くし。 ■孫文の特使 日本を後にした箱根丸は海を越え、次の寄港地、上海へ向かう。この日朝、ライティングルームで、画仙紙に向かって筆を振るう男性がいた。 中国の軍人で、政治家でもあった李烈鈞(1882~1946)。中国革命を目指す孫文(1866~1925)の特使として、手を携えて欧米列強と対抗しようと日本の各界に働きかけての帰途だった。 狭い船上とはいえ、孝吉は言葉を交わさなかったのかもしれない。日記は簡潔で、李烈鈞には触れていない。だ... -
1924(大正13)・11・11 玄界灘
未分類~孝吉の日記~午後出帆。玄界灘より夜にかけて風浪。明月にて壮快。 26歳の大橋孝吉 ■画かきになろうという男 「幼い頃から、絵さえ描かせておけばご機嫌だった」。親族にそう伝わる少年、孝吉は、12歳で京都市立美術工芸学校(美工)の予科に進み、絵描きへの道を歩み始める。 孝吉にとってごく自然なことだったろう。当時の実家界隈には、ここかしこに画家が暮らしていた。呉服を手掛ける家には画家の出入りもある。絵筆が身近にあり、美術は生活の中にあった。 呉服に携わる家からは多くの画家が羽ばたい... -
1924(大正13)・11・10 門司
未分類~孝吉の日記~午前、門司着。午後、門司上陸、市街見物。 ■父と子 孝吉は1898(明治31)年、京都市に父、孝七(1859~1938)、母イノ(1866~1902)の五男として生まれた。4歳にして母が病没する。闘病中からしばらくその実家に預けられていた孝吉に、実母の記憶はない。17歳の時には弟も失い、多感な時期に無常観を抱くようになる。 そんな孝吉が不憫だったか、孝七は家の中で末子となった孝吉をかわいがり、旅にもよく同伴した。孝吉のこの海外渡航を中心となって支えたひとりである... -
1924(大正13)・11・09 神戸出港
未分類~孝吉の日記~出帆午後三時、神戸出帆。箱根丸にて。風雨。川島氏夫妻[*1]に同伴す。 【参考写真】見送る人、見送られる人をつなぐテープが切れ、神戸港を離れようとする箱根丸。第1次世界大戦後の1921年に竣工した総トン数10,420トンの貨客船だった。『日本地理大系 近畿篇』(改造社、1929年)より 孝吉が残していた箱根丸、榛名丸の船内配置図。ラウンジにはピアノが置かれ、最上階には子どものためのスペースがある。書き込みによると、孝吉の自室は112番だった。 ■船出 見送りの人々...