2024年– date –
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1924(大正13)・11・23 シンガポール
未分類~孝吉の日記~シンガポール正午、シンガポール上陸。安い自働車を雇って海岸通、植物園、Reservoir[*貯水池]、ゴム園等を走らす。真黒なマレー人とその赤い着物、熱帯植物と別墅の庭園、草花。その熱烈なる色彩は自分の想像以上にて、豊かな自然物、土地は吾々の日本には羨望の至りであった。Raffles Hotelにて茶を飲む。夕方、船に帰る。ハイフェッツ氏下船。石原氏も下船。 -
1924(大正13)・11・22
未分類~孝吉の日記~午後、プールにて水泳す。夜、シンガポール上陸の船客の為、送別会あり。川島氏、逆立をやったのには皆一驚す。 -
1924(大正13)・11・21
未分類~孝吉の日記~快晴。追手にて海波静かなり。正午頃、西貢の陸地近くを進む。大陸の山の頂は輝いたる雲にて覆はれたり。夕暮、川島君、プールにて水泳す。今日も夕焼は美くしいといふよりも荘厳なるものであった。夜、甲板に東風涼し。闇夜。 -
1924(大正13)・11・20
未分類~孝吉の日記~朝、少雨。午後晴。浪静まる。夕焼の空美くし。印度支那の方へはるかに水平線下に没し行く美くしい赤焼の空と暮れて行く空の明星とを望む。感慨深し。この日午後、プールを作る。海水いよいよ青く、岩絵具の濃き紺青の如し。 -
1924(大正13)・11・19 香港出港
未分類~孝吉の日記~快晴。油絵の如き港の景色を望む。正午出帆。港を出でゝ風光益々美くし。午後曇。波あり船少々動揺。 ■ 同室の人、石原廣一郎 その1 18日に香港から乗船し、同室になったと孝吉が書く石原廣一郎(1890~1970)は、同郷の人だった。2人とも京都出身。26歳の孝吉に対し石原は34歳で、8つしか違わない。そんなことから、日本郵船が初対面の2人を同室に割り振ったのかもしれない。 石原は後に「南洋の鉱山王」と呼ばれるようになる実業家だ。化学メーカー、石原産業の創業者である。... -
1924(大正13)・11・18 香港
未分類~孝吉の日記~香港未明、船、香港に入る。快晴。午前、朝食後上陸。立派な欧風の市街を行き、Tram[*ケーブルカー]にてPeakに登る。風光絶佳。道路の美くしきに感心す。南国の濃厚な草花樹木の間、白き洋館の別荘の点在美くし。陶陶仙館にて支那料理の昼食をす。それより市場にて果実を買ひ込み、駕籠氏[*1]乗船、同室。 香港・ピークより、眼下に広がる街並み。高層ビルが林立する今とは随分光景が違う(1924年11月18日)=撮影・孝吉 ■幻? 「帝都復興の恩人」ハイフェッツの箱根丸乗船 この日... -
1924(大正13)・11・17
未分類~孝吉の日記~快晴。追手の風。 デッキビリヤード、デッキゴルフ等して遊ぶ。夜、社交室にlittle concert開かる。西洋人のピヤノ、Missの声楽、山中氏[*1]のセロ[*チェロ]独奏等あり。旅芸人風の西洋婦人の歌数番、奇抜。 ■中央食堂と成瀬賢秀 誰もがひもじい思いをしない社会を目指したい―。第1次世界大戦中からの物価高騰に庶民が苦しむ中、健康的な食事を安く提供する場を設ける動きが全国各地に広がった。 東京では、1918年1月に設けられた「平民食堂」。同年7月に富山で起こり全国に波及した... -
1924(大正13)・11・16
未分類~孝吉の日記~追手の風。快晴。海水漸く碧色。夜、食堂にて法話あり。面白からず。 ■仏教発祥の地へ向かった原宜賢 箱根丸は針路を南に取り、次の寄港地、香港へ向かう。16、17両日は終日を海の上で過ごす日だ。船上では乗客を退屈させまいと、夕食後にさまざまな催しが企画される。 この日、神戸を発って初めての講演会が開かれた。講師として白羽の矢が立ったのは、すでに何度も触れた原宜賢(1876~1933)。面白くない、と孝吉が日記で評した法話は、この講演会のことだった。 原自身は「『満きそ... -
1924(大正13)・11・15 上海出港
未分類~孝吉の日記~正午、上海出帆。快晴。揚子江河口の大なるに驚く。黄色い泥海を行く。 この日の箱根丸朝食メニュー ■ 欧州航路のメニュー 100年前の欧州航路の客船ではどんな食事が出されたのだろうか。 旅のさまざまな資料を取っておいた孝吉だが、船内のメニューはこの日、1924年11月15日のものしか残っていない。しかも朝食、昼食だけで、残念ながら夕食分はない。 欧州航路の乗客は多国籍。孝吉が残したメニューは英語で書かれている。食の単語を覚えようとしたのか、たくさん書き込みをしている。... -
1924(大正13)・11・14 上海
未分類~孝吉の日記~朝より海岸通を散歩して正午、汽船に帰る。 当時の上海=撮影・孝吉 ■旅を共にしたかった人 岡村宇太郎 その1 孝吉がこの旅をぜひ共にしたいと願った人がいた。 「無二の親友」[*1]だった岡村宇太郎(1899~1971)[*2]。土田麦僊や村上華岳ら京都市立絵画専門学校(絵専)の先輩たちが旗揚げした国画創作協会で、この年に会友となっていた日本画家だ。この日、岡村宛てに異国の印象を書き送ったはがきは、すでに神戸出港後の第2信だった。 最初のはがき[*3]の日付はたった...