孝吉(三峽)の年譜

                                                   ※2024年11月改訂
西暦 和暦 年齢          事項          ※作品の画材・技法は特定分のみ記載
1898 明治31 0 5月27日、京都市に意匠部や染工場を持つ自家製造の染呉服・半衿商、孝七とイノ(通称てい)の五男として生まれる。
1902 明治35 4 11月、母イノ死去。
闘病中から近くのイノ実家、岡本家で育つ。
1903 明治36 5 この年以降に、父が西クノ(通称かね)と再婚。親元へ戻り、京都市下京区(現在は中京区)蛸薬師通富小路東入ル油屋町に転居。
1905 明治38 7 京都市下京区(現在は中京区)の生祥尋常小学校入学。
1907 明治40 9 この年から1940年代まで、多くの夏を家族や親類と福井県高浜村(現在の高浜町)の海辺で過ごし、自然への憧れをはぐくむ。
1911 明治44 13 生祥尋常小学校卒業。同窓に洋画家の安井曽太郎(1898年卒)。
4月、京都市立美術工芸学校(美工)予科入学。
1913 大正2 15 4月、美工本科絵画科に進む。入江波光らに学ぶ。
1915 大正4 17 2つ年下の弟、竹造死去。無常観を抱くようになる。
1916 大正5 18 7~8月、日本アルプスへ山行(燕岳、槍ヶ岳、白馬岳など登山。上高地にも滞在)。
「自然の大きさ美しさに驚いた感動の旅」(日記より)。
1917 大正6 19 3月、美工卒業。同期に稲垣廣太郎(号・仲静)、井上慎太郎(号・永悠)ら。卒業制作は《あせびの花》(4曲1隻屏風)。送別旅行は奈良へ。
4月、京都市立絵画専門学校(絵専)本科入学。当時、西洋画科は廃止されていた。入江波光、中井宗太郎らに学ぶ。
9月、「三峽」と号す。以降、画材と画題によって実名と雅号を使い分ける。
10月、第11回文展(10~11月東京・11~12月京都)に《神苑》(6曲1隻屏風)が入選。
1918 大正7 20 山水画を手掛けたいとの思いを深める。
1919 大正8 21 4月、伊豆旅行。
8月、絵専で共に学ぶ岡村宇太郎らと北アルプス山行(立山、剱岳などを縦走し、黒部峡谷へ)。
同月、洋画を学ぶ意志を固める。
1920 大正9 22 3月、絵専本科卒業。同期に稲垣廣太郎(号・仲静)、佐藤嘉奨(号・空鳴)ら。卒業制作は《拭き掃除せる女》(日本画)。
4月、東京の川端画学校洋画科に入学。藤島武二、富永勝重らに学ぶ。
1921 大正10 23 7~8月、岡村宇太郎らと日本アルプス山行(燕岳、大天井岳、常念岳、槍ヶ岳、焼岳、穂高岳など登山。燕岳などで山頂付近に画架を立て、油彩画を屋外制作。上高地にも滞在し、明神池に心惹かれる)。
1922 大正11 24 3~4月、伊豆大島へ旅行。
1923 大正12 25 9月、関東大震災。川端画学校を3年半で切り上げ、京都に戻る。
1924 大正13 26 5~6月、父に同行して長崎、熊本、鹿児島、宮崎、大分(耶馬渓、臼杵石仏など)、福岡を旅行。
7~9月、上高地、乗鞍へ旅行(乗鞍岳登山など)。
11月9日、神戸を出港し、美術研究のため初めて海外渡航。エジプトを経由し、12月19日にフランス着。当初の同行は洋画家の川島理一郎・エイ夫妻。
1925 大正14  27 2~4月、イタリアを旅行。
5月、パリの美術学校アカデミー・ド・ラ・グランド・ショミエールで初めて学ぶ。
5~6月、イギリスを旅行。
8~9月、ベルギー、オランダ、ドイツ、チェコスロヴァキア(現在のチェコ)、オーストリア、ハンガリー、スイスを旅行。
10月~、モナコ、イタリアを経て、ギリシャ(アテネ、ペロポネソス半島、エギナ島など)を旅行。大晦日にクレタ島着。壁画の美に心を奪われる。
1926 大正15 28 元日をクレタ島・クノッソス遺跡で過ごす。同島での壁画模写、エギナ島再訪などの後、4~7月、イタリアを旅行(シチリア島など)。
10月、スペインを旅行。
1927 昭和2 29 1月、パリ発。1~2月、エジプトを旅行(カイロ、サッカラ、ルクソール、アスワン、エドフ、デンデラ、アビドスなど)し、墳墓内や博物館で壁画模写や写真撮影。
3月29日、帰国。
4月、第6回国画創作協会展(4~5月東京・5月京都・6月大阪。第二部としては2回目の展示)に《アクロポリス遠望》《エギナ風景》《タオルミナ風景》(以上、油彩)、《エギナ風景》(一)(二)、《亜典アクロポリス・プロビレー》《シラクサの宿より》(以上、水彩)の滞欧作7点を出品。同協会第二部会友となる。
7月1~3日、絵専での研究科第2回作品展の別室に、菊地契月、石崎光瑤、入江波光、孝吉がエジプトやギリシャ、イタリアから持ち帰った絵画や壁画模写などを陳列。
8~9月、長野へ旅行(上高地、槍沢など)。
11月、三重へ旅行(赤目渓谷、香落渓など)。
1928 昭和3 30 4月、第7回国画創作協会展(4~5月東京・5月京都・6月大阪)に《池畔》(一)(二)(いずれも油彩)を出品。同協会第二部会員となる。
7月、同協会解散。発表に併せ、第二部は孝吉、梅原龍三郎、川島理一郎、金子九平次、富本憲吉、山脇信徳の同人6人連名で「国画会」としての継続を声明。
8~9月、長野(上高地、槍沢、熊倉沢など)、山梨(昇仙峡など)を旅行。
10月、保倉つねと結婚。
1929 昭和4 31 1月5~10日、個展「滞欧小品展」を京都・画箋堂で開く。《タオルミナ劇場跡よりエトナ山を望む》(油彩)、《アスワン村落》(水彩)など35点を出品。
2月、絵専同窓の徳力富吉郎に版画の手ほどきを受ける。最初に手掛けたのは《エギナ村落》。
4月、上海での中華民国教育部第一次全国美術展覧会に《上高地の清流》を出品。5月、上海での同展日本側出品洋画展覧会にも同作品が巡回。
5月、第4回国展(5月東京・6月神戸)に《熊倉澤》《槍澤》(いずれも油彩)、《ペスツム神殿》(木版)を出品。
5~6月、奈良へ旅行。
7~8月、富山・黒部峡谷へ旅行。
7月、長男保夫誕生。
10月、奈良へ旅行。
11月、三重・香落渓へ旅行。
1930 昭和5 32 2月、第5回国展(東京)に《六月の高畑》《喜光寺秋色》《新藥師寺東門》《喜光寺と寶来の村》(以上、油彩)、《エギナ村落》(木版)を出品。
3月、第2回聖徳太子奉賛美術展覧会(東京)に《谿谷》(油彩)を出品。
4月、奈良・吉野山へ旅行。
7月、最初の南アルプス山行(甲斐駒ヶ岳、仙丈ヶ岳、間ノ岳、農鳥岳を縦走)
9~10月、最初の青森旅行(十和田湖、奥入瀬渓流、蔦温泉など)
11月、長女俶子誕生。
1931 昭和6 33 1月、実家を離れ、京都市上京区加茂(現在は北区小山)板倉町の借家へ転居。
4月、第6回国展(東京)に《奥入瀬川千島》《奥入瀬阿修羅の流》(以上、油彩)、《冲天巖》(目録では水彩だが、制作ノートによると「墨画」)、《香落峽秋色》(水彩)を出品。
8月、2度目の南アルプス山行(荒川岳、東⦅悪沢⦆岳、赤石岳縦走など。山中でも油彩画制作)。
9~10月、2度目の青森旅行(蔦温泉、奥入瀬渓流など)。
1932 昭和7 34 5月、第7回国展(5月東京・6月大阪)に《鏡沼秋色》《初秋の月沼》(以上、油彩)、《聖岳》(水彩か)、《大井川の奥》(水彩)、《晩夏》(木版)を出品。
5月、カラーフィルムの発売(世界では1936年。日本は1941年)に先立ち、エジプトとギリシャの壁画の美を色とともに伝えようと、自筆のカラー模写集『古代埃及希臘クレタ嶋壁画選』(聚楽社)を出版。
9~11月、朝鮮半島を旅行。金剛山、楽浪古墳・高句麗古墳群などの遺跡、各地の博物館を訪ね、制作と朝鮮文化研究。
1933 昭和8 35 4月、第8回国展(5月まで東京)に《金剛山船潭》《金剛山風景》《牡丹台秋景》(以上、水彩)、《温泉》(木版)を出品。
5~6月、京都府園部町(現在は南丹市)の琉璃渓滞在。
7~8月、3度目の南アルプス旅行(甲斐駒ヶ岳、アサヨ峰、鳳凰三山縦走。大武川渓谷、石洞川、尾白川渓谷などの沢巡り)。
9~10月、3度目の青森旅行。
1934 昭和9 36 3月、次女孝江誕生。
4月、第9回国展(5月まで東京)に《森ノ淸流》《時雨ルヽ奥入瀬》《菊》(いずれも油彩)を出品。《菊》は静物としては初めての出品作。以降、日本や朝鮮、中国の古陶に花や果物を組み合わせた作品を時々出品するようになる。
5月、開館記念の大礼記念京都美術館美術展に《琉璃溪新緑》(油彩)を出品。
8月、4度目の南アルプス旅行(精進滝、魚止滝など)。岩小屋(洞窟)に13泊して油彩画を描く。帰途に長野の天龍峡、寝覚の床、田立の滝を訪ねる。
12月、京都市左京区浄土寺石橋町(現在は銀閣寺前町)の半鐘山麓に自宅「滴翠軒」を構える。設計施工は熊倉工務店。
1935 昭和10 37 4月、第10回国展(4~5月東京・5~6月大阪)に《魚止の瀧》(油彩)、《パルテノン神殿》(大阪展に出品せず)、《鉅鹿深碗と白椿》(油彩)、《十和田山秋色》(水彩)を出品。
3年ぶりの同展関西展復活に奔走。12回展まで大阪展開催の事務を中心的に担う。
5月、大礼記念京都美術館での第1回京都市美術展覧会(市展)に《幼女像》《深山溪流》(いずれも油彩)を出品。
同展審査委員。以降、1945年の第1回京展を除き、47年の第3回京展まで審査員・委員。
7~8月、静岡・大井川を遡行。スケッチや写真撮影をしながら千頭から接岨峡を経て源流の伝付峠まで14日間かけ、徒歩行。
9~10月、北海道を旅行(層雲峡、黒岳登山、ペンケトーなど)。
1936 昭和11 38 1月、国画会第1回小品展(東京)に《阿寒湖の秋》(油彩)、《層雲峡》(水彩)、《温泉》(水彩・扇面)を出品。
2月、大阪・淀屋橋画廊での関西諸作家洋画展に《渓流晩秋図》(油彩)を出品。
4月、第11回国展(4月東京・4~5月大阪)に《紅葉の雄阿寒》《流星瀧》《白磁壺と椿》(以上、油彩)、《白磁鉢靜物》(東京展のみ)を出品。
この頃から妙心寺の学僧、加藤晦堂に『荘子』など漢学の講義を受け始める。1940年の加藤死去まで妙心寺に通い続ける。
9~10月、四国を旅行(愛媛・面河渓、高知・室戸岬、徳島・大歩危小歩危と祖谷渓など)
1937 昭和12 39 4月、第12回国展(4月東京・5~6月大阪)に《溪流新緑》《關門》(いずれも油彩)を出品。
5月、大阪・阪急百貨店の第15回春秋会洋画展として、国画会関西同人の辻愛造、川西英、大谷房吉、孝吉の4人が小品を展示。
5月、第2回市展(6月まで)に《雨後の待仙亭》《關門》(いずれも油彩)を出品。
9月、二男吉雄誕生。
10~11月、広島(三段峡、餅ノ木)、山口(長門峡)へ旅行。
1938 昭和13 40 1月、父孝七死去。
4月、第13回国展(4月東京・8月神戸)に《志樂壺と白椿》《餅ノ木の秋》(いずれも油彩)を出品。
5月、第3回市展に《三ツ瀧》《信樂壺と椿》(いずれも油彩)を出品。
5月、三重へ旅行(香落渓、赤目渓谷)。
11月、琉璃渓に滞在。
1939 昭和14 41 3月、自ら撮影したものを交えた大判の写真集『古代埃及彫刻集』(桑名文星堂)を出版。
4月、第14回国展(4月東京・5月神戸)に《溪亭新緑》《疎林晩秋》(いずれも油彩)を出品。
5月、第4回市展に《アネモネ》《溪亭紅樹》(いずれも油彩)を出品。
10月、紀伊半島・瀞峡へ旅行(奥瀞、上瀞、下瀞)。
10月、第3回新文展(10~11月東京・12月京都)に《潭》(油彩)を出品。
1940 昭和15 42 3月、第15回国展(3~4月東京・5月大阪)に《紅葉谷》《白磁大鉢と果物》(いずれも油彩)を出品。
3月、国画会退会。「人生永からず、(中略)静かに勉強したくなった。真に崇拝するものを拝し、見たいものを見、描きたいものを描く為に」(日記より)。
4月、三重・赤目渓谷へ旅行。
5月、第5回市展に《谷間》(油彩)を出品。
5~6月、瀞峡へ旅行。
1941 昭和16 43 5月、第6回市展に《上瀞》(油彩)を出品。
この年、考古学者の故・浜田青陵に捧げられた研究報告書『河南洛陽龍門石窟の研究』(水野清一、長広敏雄著)用に中国・賓陽洞レリーフの描き起こし図を手掛ける。写真を基に制作。
9~11月、紀伊半島・奥瀞へ旅行(相須峡など)。帰途、奈良の北山川源流良や吉野を訪ねる。
1942 昭和17 44 5月、第7回市展に《新緑の瀞》(油彩)、《壺と白椿》を出品。
6月、大阪・三角堂で個展。《雨後の大河原》《瀞亭新緑》など油彩18点と《餅ノ木溪流》《山村の宿》など扇面を含む水彩7点を出品。
10月、大礼記念京都美術館の現代美術常設陳列に《黒部溪流》が展示される。
10月、第5回新文展(10~11月東京・11~12月京都)に《秋晴の相須峡》を出品。
10~11月、瀞峡へ旅行。
1943 昭和18 45 1月、戦時下、「洋画家としての職域奉公に邁進するため報国精神の下に協同して諸種の事業を行ひ作家相互研鑽便宜を図」ることなどを目的に掲げる京都洋画家連盟が成立。孝吉を含む市展の洋画審査員5人全員が連盟委員となる。
3月、同連盟陸海軍献画展に《壺と櫻》(陸軍献画)、《秋の大河原》(海軍献画)を出品。
5月、第8回市展に《岩壁》(油彩)を出品。
6~7月、赤目渓谷へ旅行。
10月、第6回新文展(10~11月東京・12月京都)に《懸瀑》(油彩)を出品。
1944 昭和19 46 1月、継母クノ死去。
7月、平安神宮御鎮座50年、平安遷都1150年奉祝京都市展に《潭(赤目溪谷)》を出品。
7月、映画監督の溝口健二、造園美術研究所の佐野芳造らと岐阜県高山市へ旅行。1956年に溝口が没するまで、よく古美術や庭園を一緒に見て歩いた。
10月、5年前にまとめた『古代埃及彫刻集』の普及版(立命館出版部)を出版。
11月、文部省戦時特別美術展(12月まで東京)に《上嵯峨の秋》(油彩)を出品。
1945 昭和20 47 5月、自宅を担保に、自ら撮影したものを中心に編集した写真集『古代希臘美術』(上・中・下、桑名文星堂)を出版。
11月、大礼記念京都美術館での第1回京都市主催美術展(京展)(12月まで)に《緑陰淸流》(油彩)を出品。
1946 昭和21 48 5月、京都博物館での第2回京展(6月まで)に《芋と玉葱》《林泉》(いずれも油彩)を出品。
1947 昭和22 49 4月、京都美術懇話会の求めでエジプト、ポンペイなどの壁画模写展を前年秋開設の京都・朝日画廊で開催。19点を展示。
6月、丸物百貨店での第3回京展に《秋睛の大和路》(油彩)を出品。
1948 昭和23 50 11月、大丸京都店で第1回京都美術懇話会展が開催される。同展には、会員として静物を描いた小品を中心に1979年頃まで出品した(この年譜には目録を確認できた分のみ記載)。
1953 昭和28 55 4月、接収解除に伴い京都市美術館で再開された第5回京展(5月まで)に、「三峡」の雅号で《静物》(油彩)を出品。
1954 昭和29 56 4月、第6回京展(5月まで)に《吉野山》(油彩)を出品。
1955 昭和30 57 4月、第7回京展(5月まで)に《果物》(油彩)を出品。
1956 昭和31 58 5月、第8回京展に《秋の野》(油彩)を出品。
5月、京都新聞の「月曜随想」に画文。
1957 昭和32 59 2月、現代版画秀作展(2月日本橋三越・3月大阪高麗橋三越)に作品が並ぶ。
5月、第9回京展に《林檎》(油彩)を出品。
7月、京都新聞の「月曜随想」に画文。
この年、陶製の雅号印「峽」を国画会で共に活動した富本憲吉に依頼。大小2点。完成後、水彩画に使う。
1958 昭和33 60 2月、第10回京都美術懇話会展に《コールマン》(油彩)を出品。
5月、第10回京展に《曇り日のパルテノン神殿》(油彩)を出品。
11月、京都新聞の「月曜随想」に画文。朝日新聞近畿版に画文。
1959 昭和34 61 5月、第11回京展に《スイトピー》を出品。
1960 昭和35 62 5月、第12回京展に《瀞》(油彩)を出品。
1961 昭和36 63 4月、第13回京展(5月まで)に《大沢池の石仏》を出品。
1964 昭和39 66 2月、第16回京都美術懇話会展に《クーペ》(油彩)を出品。
4月、第16回京展(5月まで)に《バラ》(油彩)を出品。
1965 昭和40 67 2月、第17回京都美術懇話会展に《梨と葡萄》(油彩)を出品。
4月、第17回京展(5月まで)に《雑木林》を出品。
1966 昭和41 68 5月、第18回京展に《林檎》を出品。
1967 昭和42 69 4月、第19回京展(5月まで)に《瀞》(油彩)を出品。
1968 昭和43 70 4月、第20回京展(5月まで)に《山稜》(油彩)を出品。
1969 昭和44 71 4月、第21回京展(5月まで)に《赤椿》を出品。
1970 昭和45 72 4月、第22回京展(5月まで)に《吉野山》(油彩)を出品。
1971 昭和46 73 4月、第23回京展(5月まで)に《林檎》(油彩)を出品。
1974 昭和49 76 1月、第27回京都美術懇話会展(2月まで)に《林檎》(油彩)を出品。
1976 昭和51 78 2月、第29回京都美術懇話会展に《バラ》を出品。
1977 昭和52 79 2月、第30回京都美術懇話会展に《芋と玉葱》(油彩)を出品。
5月、第29回京展に《桜咲く丘》(油彩)を出品。最後の同展出品となる。
11月、長男保夫夫妻の招きで、フランスの文化人類学者クロード・レヴィ=ストロース夫妻が自宅来訪。
1978 昭和53 80 2月、第31回京都美術懇話会展に《熟した柿》(油彩)を出品。
3月、保夫の義妹の縁で、スイスのフルーティスト、オーレル・ニコレが自宅来訪。
1979 昭和54 81 2月、第32回京都美術懇話会展に《桃》(水彩)を出品。
1984 昭和59   2月25日、肺炎のため京都市内の病院で死去。享年85。戒名は「滴翠軒彩光三峽居士」。